V82 特集
イエス様という宝物
我謝藤子さん
「イエス様のことが大好きです」
子どものような笑顔で語る我謝藤子さん。幼い頃に信じたイエス様からたくさんの奇跡(宝物)を頂いた証をしてくださいました
朝起き会での讃美
我が家にイエス様が訪ねて来られたのは、戦前のことです。師範学校に通っていた本家のいとこ達が休みを利用して本部町に帰省すると、小さい子ども達を集めて「朝起き会」をするのです。
皆でほうきを持って集まり、挨拶、体操、讃美、道路の掃除、それから近くの川へ讃美を歌いながら行進します。そこで洗面、体をきれいにし、また讃美をしながら戻ります。
それが休みの間続きました。クリスチャンのいとこ達のおかげで、自然と讃美を覚えました。
また、姉の淳子(渡真利文三牧師夫人)は女学校時代、那覇バプテスト教会に行っていました。姉は善隣幼稚園の湧上先生から一冊の本を託されて来ました。「イエスさま」という本です。イエス様と初めて出会った本となり、私の宝物となりました。
幼い私に讃美を教えてくれたいとこ達、本家・分家を合わせて十名の命が戦争で失われました。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」(ヨハネ一二章二四節)
事実その通りです。彼らを通して、親族の中に福音の種が蒔かれ、それが次々と繋がり、沢山のクリスチャンの家庭が誕生しました。牧師や伝道師として献身している者もいます。実に神様のなさることは素晴らしいことです。
保育の現場で
私は小・中学校を卒業後、名護の高校へ進学。一九五二年十一月九日、高校三年生の時に宣教師ハッキンス先生からバプテスマを授かりました。高校を卒業するまでの少しの間、ハッキンス先生のお手伝いをさせて頂きました。
高校を卒業した後二年の間、姉を手伝い、甥の彦文(現・渡真利彦文牧師)の子守りをするため那覇へ行きました。その後、親戚が手伝いに来てくれたので、一九五五年から民間の保育園に勤めました。事情があり閉園になりましたが、預かり先のない数名の子ども達を見捨てることはできず、私が面倒を見ていました。
そんな折、通っていた那覇バプテスト教会の新会堂が一九五七年に那覇市楚辺に完成。同時に戦後の復興で善隣幼稚園を再開するとのことで、照屋寛範牧師から声が掛かりました。私が預かっていた子ども達も一緒に来て良いと仰って下さりお受けしました。
戦前から善隣幼稚園の先生をされていた久場先生と二人での保育が始まりましたが、用意されていたものは、「善隣幼稚園」という名前だけ。青とピンクのベンチのような机と木の椅子を急いで用意し、小さな砂場とブランコ、そして古いオルガンでのスタートとなりました。
わずかなお金で参考になる本、子ども達のために絵本、画用紙、クレヨン、色紙、積木などを購入しました。教会の青年達の協力を得て園児募集のポスターを作り、彼らがそれを貼りに走り回ってくれました。
戦前から幼稚園と関わりのあった家庭や近隣からの入園希望者があり、私の預かっていた子ども達と合わせて十五~十六名ほどだったと思います。素晴らしい入園式をしたと記憶していますが、久場先生と二人で、ただただ一生懸命だったので、そう思えたのかもしれません。
朝のお迎え、挨拶、そして生活指導、礼拝、その他いろいろな遊びも全て、オルガン一つで動かしていました。久場先生の心弾ませる音のマジックは、教師の言葉も必要ないほどに子ども達の心に届きました。
オルガンに合わせて、虫に、さなぎに、蝶にと、子ども達は生き生きと弾けていました。園長の照屋牧師も、一緒になってよく遊んで下さいました。しばらくして外人さんが古いピアノを寄贈して下さり、オルガンに代わって宝となりました。
民間保育園で働いていた頃から、子ども達のためにと必死で働いてきましたが、保育士免許が必要となり、一九五八年に東京保育女子学院に進みました。一九六〇年に卒業、再び善隣幼稚園に戻り、それから結婚するまでの約十年間、子ども達と共に楽しい日々を過ごせたことは、私の財産となりました。
帰ってきたひとつの「いのち」
私の夫となった三歳年下の孟諄(もうじゅん)は、那覇バプテスト教会が久米にあった頃、高校に伝道に来ていたボードマン先生を通して導かれ、時折教会に通い、夏季キャンプにてバプテスマを受けました。
高校を卒業後、親を頼って大阪に行きましたが、遊郭の経営者であった父親に対し、クリスチャンとなっていた彼は意見をしたのです。すると親子の縁を切られ、放り出されました。働こうにも保証人がなく、行き場のない彼はホームレスに。
飢えと寒さをしのぐため、暖房がある駅の一等客待合室にもぐり込むも、すぐにつまみ出され、辛い思いをしたと話していました。
このままでは飢え死にしてしまう。食べ物屋で住み込みで働けないかと、大きなレストランの門を叩きました。住み込みで入れたのは良かったのですが、キツい下働き。入職者は沢山あっても、下働きのキツさに耐えられず、翌日にはもぬけの殻ということも多々。
何年か辛抱し、見習いとして仕事をさせてもらえるようになったそうです。
そんな日々を送っていた彼から一度だけ、差出人住所が書かれていないクリスマスカードを受け取りました。特別な内容ではありませんでしが、書く住所を持たないのかと、大阪にいる彼のことが気になりました。
幼い時から満たされない生き方を強いられていたことは知っていたので、彼の「いのち」のことを心配しました。そのまま放ってはおけない、そういう思いが強く、祈りに覚えていました。
それから何年か経った後、彼がひょっこり教会の水曜祈祷会に現れました。彼の父親が病に伏し、沖縄に帰郷していたので、親戚が彼を探し出し、戻って来るように連絡したそうです。
「ひとつの『いのち』が帰ってきましたよ。神様ありがとうございます。感謝します」と祈ったことを覚えています。
それから大阪に戻ったりしていましたが、沖縄を離れたら、彼が神様から離れてしまうのではないかと、私の方から「結婚するから、沖縄に帰って来て下さい」と申し出ました。
死の恐怖から解放
一九六九年、結婚を機に善隣幼稚園を退職。夫婦で食堂「カトレヤ」をオープンしました。しばらく営業していましたが、娘が誕生し子育てのため、一九七一年に店を閉めました。
それから、タッパーウェア、大島紬、宝石などの移動販売を始め、十年がたった頃、一九八〇年に癌の宣告を受けました。私の頭の中は、「癌=死」でした。
夫と十歳の誕生日を迎えようとする娘、二人を残して逝くことを思い、夜になると枕を濡らしました。とにかく、二人が生きていけるように仕事を整理しなければと思い、大島紬の反物をまとめて、大島へ飛びました。
良い物はいつでも売れる、持っていても心配はないと考え、良い大島紬と交換するためです。
その夜、ホテルのベッドの側でひざまずき祈っていると、
「なぜ、死に急ぐのか」
という言葉が聞こえたような気がして、その時、突然目が開かれたのです。「ああ神様、ごめんなさい。不信仰でした」病は、恐れるものではない。この病を通して主が私に教えたいことがあるのだとはっきりわかりました。
死の恐怖から解放された私は家に帰り、入院、手術。二十一日間の入院生活は恵みと祝福と感謝の嵐でした。
「死よ、なんぢの勝は何處にかある。死よ、なんぢの刺は何處にかある。」コリント前一五章五五節
「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の為には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る。」ローマ八章二八節
カナ四十年の恵み
与えられた命をもって手術後一年たらず、一九八一年八月十五日に、琉球料理店「カナ」をオープン。ヨハネの福音書二章一節から始まるカナの婚宴、イエス様が公生涯の最初に奇跡を行われた場所の地名です。
水をぶどう酒に変えられた奇跡のように、「このお店に訪れる方々が変えられると良いね」と、主人がつけた店名です。琉球料理を始めたのは、教会のメンバーがイスラエルに行く前にクンチ(力)をつけようと教会仲間でイラブー汁を作ったことがきっかけです。
食べると驚くほどに元気が出たことから、イラブー汁の食堂がしたいと思い立ったのです。しかし、そう易々と問屋は下ろしません。右往左往しながら三年が過ぎ、五年経った頃からようやく先が見えてきました。
那覇で二十年、北中城に移転してから二十年が経ちました。主人と共に私を助けてくれた娘夫婦。従業員の春美さん、幸子さん、ともちゃんは、私の愛する家族です。皆と過ごした日々が懐かしいです。
ノートを紐解けば、八十代になったばかりの頃のメモが見つかりました。
「世の中の最高には、とおく及ばなくても、我が内の最高を提供したい。素材が良くても、そうでなくても、心をつくせば必ず良いものができるはず。“結果”は、お客様の表情に委ねる。お客様の喜びは私の喜び。お客様の満足が私の満足。はるか彼方の最高に心を向けて、八十を過ぎた今、思う。まだ時は残されているでしょうか。しかし、もうそう永くは続くまい」
このメモを書いてから時は過ぎ、もう八十八歳を目前にしています。感慨深いものがあります。カナで多くのお客様との出会いがありました。
共に祈り、沢山の奇跡を体験しました。夫は三年前に召天しましたが、まだ頑張れと主が仰せになるのなら、娘夫婦と共に頑張ります。
振り返ると、イエスさまから多くの宝物を頂きました。「藤子、迎えにきたよ」とお迎えの時が来るまで、主のおひざもとで甘えて過ごしながら、イエス様の愛に包まれ共に歩む日々が今の私の宝です。
幼い頃に出会ったイエス様と永遠に過ごす日に思いを馳せ、感謝する日々を過ごしていきたいものです。