V81 特集
私には希望がある
国吉真勇牧師
沖縄には「アメリカ世」という言葉があります。終戦から日本復帰までのアメリカによる沖縄統治時代のことです。そのような激動の時代の中でも物おじせず、アメリカ軍基地の中に入っていった少年がいました。
英語を習得し、異国の友人から聖書をもらい、牧師になった国吉真勇先生。88歳を迎えた今なお、希望に溢れる証を紹介します。
アメリカ世 になった沖縄で
戦争が終わったとき、私は11歳だった。友人からアメリカ人は食べ物をくれると聞き、海軍のテントに行った。「トモダチ」という魔法の言葉をとなえながら握手をすると、チョコレートやお菓子がもらえた。鬼畜米兵との教えとは対照的に、米兵は戦争孤児となった子どもの面倒を見たり、引き取ってアメリカに連れて帰る人もいた。
私は11歳にしてはとても小柄だったことと、毎日海軍のテントにいたので優しい兵隊さんが面倒を見てくれ、4年間基地の中で生活することができた。2年は白人、次の2年は黒人の兵隊だった。基地内を自由に歩き回れたので、ベッドメーキングなどをしながらチップをもらい、毎月50ドルほどの収入を得ることができた。10ドルは小遣いに、残りは実家に仕送りをした。
教会に行ったこともあった。従軍牧師は涙を流しながら説教をしていた。子ども心に、神を信じるのはきっと良いことに違いないと思った。この4年間で英会話ができるようになっただけでなく、自分自身もアメリカ人だと思い込んでしまった。アメリカ兵は小さな子どもの面倒は見るが、体が大きくなると一人前の人間として扱う。私も体が成長したことで、基地から出て自分で生きていくように言われた。15歳で実家に戻ると、黒人でも白人でもない黄色い人種であることに気づき、しばらくの間落ち込んだ。
父の畑仕事だけでは生活が苦しかったので、長男として家族を支えなければと、得意の英語を生かし、基地の中で大工や電気修理など、どんな仕事でも挑戦した。その場を繕うために嘘をつくことがよくあり、数えきれないほどの失敗を繰り返した。しかし、上司に怒鳴られながらも、あまり気にしない性格のおかげで、多くの技術を身につけることができた。
20歳、地域の青年会で出会った春子と結婚した。「私の孫のおばぁちゃんになってくれませんか」と遠回しなプロポーズをした。子宝に恵まれ、2人続けて女の子が誕生した。
ジャックの救い
ジャックは職場の上司であり友人だった。生真面目な性格だが、1000ドルという高月給を、たばこや博打に使い込んでしまう悪習慣があった。アメリカに戻ってもその生活を変えられなかった上に、糖尿病を患い入院した。それがジャックの転機となった。入院中に伝道され、熱心なクリスチャンになったのだ。
私が24歳の時、彼から聖書に添えて手紙が送られてきた。
「あなたはアメリカ人だから『アーメン』、私はウチナーンチュだから『ウートートー』(先祖崇拝)」と返事を書くと、
「神さまはただお一人でどこの国など関係ない。イエスさまはあなたの罪のために十字架で死んでくださり、墓に葬られ三日目に生き返った。このイエスさまを信じるならどんな罪でも赦され、この世が終わったら天国にいける」と教えてくれた。
私はクリスチャンになりたいと思った。聖書も一般的な本の一つだと思っていたので、一番最初のページから読み始めたが、旧約聖書の家系図や法律の話など、とても理解できるものではなかった。ジャックから「新約聖書から読むように」と返事が来たので、新約聖書の最初であるマタイの福音書を読み始めた。
イエス・キリストが処女マリヤを通して生まれ、飼葉おけに寝かされ、三人の博士が赤ちゃんを訪ねて長い旅をした話など、好奇心をそそられた。その後、十字架で殺されたところではとても悲しくなったが、生きて墓から出てきたというのは常識を超えていると思った。イエスはたくさんの奇跡をし、ついに天に上げられたと書かれ、とても素晴らしい話だと感動した。
次にマルコ、ルカ、ヨハネと読み進めて行くと、同じような内容が書かれていた。今となっては笑い話だが、イエス・キリストは4回生まれ変わったのだと思っていた。それを知ったジャックは、宣教師のビル・クイズンベリー先生のところに行くなら、もっとキリストを知ることができるだろうと返事をくれた。ビル先生の教会は北中城村喜舎場にあり、英語と日本語の礼拝を行っていた。小学校を卒業していない私は、日本語の読み書きが苦手で、英語での礼拝があることは救いだった。
礼拝では、皆泣きながら祈っており、本物の教会に違いないと通い始めた。私はクリスチャンに早くなりたいと、「ハレルヤ」「主をほめたたえます」など、聞いた言葉を繰り返し使っていた。読んだこともない英語のトラクトを持ち歩き、出会う兵隊さんに渡したりもした。
死への恐怖と罪の赦し
教会へ行って三カ月ほど経った頃、仕事帰りのバスの中でトラクトを配り終え、余ったトラクトに初めて目を通した。そこには、人は死んだら天国か地
獄に行くと書かれていた。非常に感動したのと同時に、初めて罪悪感に襲われた。
自分が罪人であると悟ったのだ。すると、神さまが私の心に迫ってきた。
「このバスがひっくり返ったらお前は死ぬ。死んだらどこに行くのか。地獄に行ってもいいのか」
恐怖で震え上がり、家に着くとすぐに自分の部屋に入った。汗でびっしょりになるほど繰り返し悔い改めの祈りをした。祈り終えると素晴らしい平安に包まれ、赦されたと感じた。疲れてそのまま寝てしまったが、翌朝起きると、ここは天国かと思うほど平安に包まれていた。目に映るもの全てが美しく感じられた。
妻と両親に昨日私の身に起きたことを話すと、皆気が狂ったと思っていた。しかし、妻はすぐにイエスさまを救い主と受け入れた。イエスさまが自分の人生に入ってくださったので、何もかも素晴らしく感じられることを近所の人たちにも話したが、彼らは私が酒に酔っていると思っていた。私の人生はそれ
から大きく変わり始めた。
一番変化したのは嘘をつかなくなったことである。また、毎日の日課であった三味線、英語の勉強、花木の手入れ、電気修理などに全く興味がなくなり、聖書をひたすら読みあさった。みことばへの飢え渇きから毎日5節ずつ暗唱聖句をした。また、妻が3人目を身ごもったので、「男の子を与えてください。男の子でしたら牧師としてあなたに捧げます」と祈ると長男が与えられた。
25歳、教会で通訳をしながら副牧師として働かないかとビル先生が声をかけてくださった。「神さまの御心ですか、それとも人間の誘いですか」祈れば祈るほど献身への確信が強くなった。それから基地での仕事を辞め、副牧師として働き始めた。
26歳、アメリカの聖書学校へ行く機会が与えられた。教会ですでに実践的な働きをしていたため、学ぶ期間は半年間のコースとなった。半年の学生生活に、金銭的な余裕はなかった。神さまに祈ると、「働きなさい」と示された。「神さま、私は学生ビザなので働くことはできません」と言うと、「神の働きをしなさいという意味です。教会に行って証をしなさい。金も銀もわたしのものである」とハガイ2章8節のみことばを通して教えてくださった。
それから色々な教会をまわり、沖縄県人会の方々にも福音を伝え、多くの人が招きに応答した。かねてよりアメリカにいるウチナーンチュに伝道したいと思っていたことが叶えられた。教会からサポートを頂き、全ての必要は満たされた。聖書学校を卒業後、カナダで3カ月間伝道し、それから沖縄に戻った。沖縄に帰ってくると、妻が皮膚病を患い、その治療や通院のためにお金が必要になった。アメリカからの献金も全て使い、乗っていた車を売り、毎日パパイヤだけを食べるような生活。そのような状況でも給料の約半分は実家へ仕送りを続けていた。
母は、「自分の家庭があるのだからもう仕送りはしないで」と言ったが、長男として家族を見捨てるようなことはできなかった。その時「お母さんがいう通りに仕送りをやめなさい。わたしが備える」と神さまが語って下さった。目に見える状況は何も変わっていなかったが、信仰によって仕送りを止めた。するとすぐに、父名義の軍用地がどんどん値上がりし(戦後借地料は安かった)、私の仕送りがなくても実家は生計を立てることができるようになったのだ。そればかりか、私たちたちがお金をもらうほどになった。神の働きをする者に、主は備えてくださることを体験した時だった。
父の救い
父は大酒飲みで、長い間母を苦しめてきた。ある日父は畑仕事の最中に、体調不良から急に濃い暗闇に襲われたように感じ、死ぬかと思うほどだった。とっさに、「長男の神さま!まだ死ぬ準備ができていません。どうか命を伸ばしてください。そうすればあなたを信じます」と祈った。それから父が救われる道が開かれていった。しばらくして教会の宣教師が父の元に伝道に来た。
その後私の聖書を借りて読み、ひざまずいて罪の赦しを祈り、イエスさまを受け入れた。父を通して、母と祖母も救われた。それだけはなく、家の仏壇も処分し、行く先々で主を証する人と変えられたのだ。
ラジオ伝道
怖いもの知らずの私は、ラジオ局(極東放送)に、方言での伝道番組を持ちたいと何度もお願いに行った。あまりのしつこさに折れたようで、1961年から20年間、毎日夕方7時から10分間、ウチナーグチで福音放送を続けることができた。テレビのない時代、夕飯時の良い時間帯だったこともあり、番組宛のハガキが毎日のように届き、教会は人でいっぱいになった。
ヤンデムンノンサー伝道
宣教師が始めた教会ということもあり、教会のメンバー数名で山原や離島伝道も積極的に行った。復帰前は公民館を借りて大規模な伝道をすることも多かった。復帰後は宗教団体に公民館を貸せなくなったため、地域を車で回りながらのヤンデムンノンサー(壊れたものを無料で直すという意味)伝道に変えた。網戸の張り替え、自転車のパンク修理、エアコン修理、髪の散髪(美容師の信徒がいた)まで、なんでも無料で行った。修理をしながらその家の方に福音を伝えた。救いを受け入れ、教会に繋がった家族も出てきたことは感謝だった。
自分たちにできる事を用いて福音を伝えた
会堂建築
教会は、地主から土地の返却を迫られ、新しい土地と建物のために祈り始めた。1980 年に現在の沖縄市比屋根に土地と中古建物が与えられたが、建物の老朽化のために建て替えを余儀なくされ、教会は一眼となって祈った。主は祈りに豊かに答えてくださり、1988 年に無借金で新会堂を建築することができた。
長男の献身
神に捧げると祈り与えられた長男だったが、中学生の頃から反発し教会には行かなくなった。しかし、放蕩息子は30歳の時に救いを受け入れ、40歳で献身し副牧師となった。長男の初めてのメッセージを忘れることはできない。それから牧師として成長し、教会を任せてもいいと思った。
長男を主任牧師に任命し、私は協力牧師としてサポートに回りながら、新たな希望を心に秘めていた。
妻の召天
2004年、春子が突然天に召された。亡くなる前日に夢を見た。彼女は旅に行く準備をしていた。天国に行く準備だったのかもしれない。しばらくたったある日、「コーヒーを飲んでから仕事しなさい」と春子の声が聞こえたような気がした。
一人泣いていると、神さまが語りかけた。「彼女は私が迎えたのだ。しばらくしたら、今度はお前を迎えに行くから準備をしておきなさい」
その日をきっかけに、私は元気を取り戻した。服装もそれまでは普通のおじいさんの格好だったが、ジーパンに革のベルトを締め、カラフルなシャツというスタイルに変更した。
新しい教会を始める
2015年、教会を長男に任せ、かねてからのビジョンであった「ウチナー教会」を北中城村仲順に開拓した。方言での賛美とメッセージを語るスタイルの教会である。まだ小さな教会だが、神さまが全ての必要を満たしてくださる恵みを改めて体験している。
ガンからのいやし
2018年、伝道を終え1人教会に戻ってくると、そのまま意識を失った。そこにやって来た教会のメンバーが私を発見し、救急車を呼んでくれた。検査の結果3カ所にガンが見つかった。医者は、年齢的な問題と転移の状況から、手術はせずにホスピスに行くかもしれないと家族に伝えていたようだ。
一人でトイレに行くこともできず、しばらく落ち込んでいたが、「これは天国に行くチャンスではないか!神さま早く天国に行かせてください」と期待と感謝の祈りをするようになった。希望を見出したことで心が元気になり、さらに多くの方の祈りのおかげで体調は回復して行った。ガンを示す数値もほとんど正常値に戻り、手術をせずにいやしを体験した。
3カ月に1度通院し、ホルモン療法などを受けているが、ガンは抑えられている状況である。今では好きな運転もでき、毎日元気に過ごせることを神さ
まに感謝している。
多くの祝福受け新たな夢へ
5人の子どもたちの中で、末子の次男は33歳の時に病気で天に召されたが、4人の子どもたちは牧師や牧師夫人となり、それぞれの教会で主に仕えている。
孫とひ孫は30人、教会では霊の子どももたくさん育ち、彼らによって幾つかの教会が開拓された。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節
これは、私が初めて覚えたみことばであり、私の牧会人生の土台である。牧師に引退という言葉はない。今年88歳だが、100 歳を過ぎても続けて行くつもりだ。今後のビジョンは1000 人の教会を建てあげること。
私には主にあって希望しかないのだ。