v67特集

この島で生まれこの島のために〜奄美群島に救いを〜

今栄徳武牧師

今栄徳武牧師

私は、沖永良部島出身の両親の元、6人きょうだいの5番目、三男として生まれました。父は教師であったので、沖永良部島・徳之島・奄美大島を転々と移動し、高校卒業まで過ごしました。

父は自宅に先生方をよく招いていました。教壇での立派な振舞いと異なり、お酒を飲んで騒いでいる先生方の姿を見て、子ども心に違和感を感じ、教師には絶対にならないと決めていました。

遊園地もなく、ただ海と空しか見えない島、ここを出て本土へ行きたい。しかし、日本は世界地図で見ると小さな島国。ならば島(奄美群島・日本)で一生を過ごすのでなく、大陸(世界)へ行きたい。そう思い、高校時代に、English Speaking Society クラブ(ESS)に入りました。

外資系企業へ行くためには経済の勉強が必要と考え、経済学部のある大阪の大学へ行き、そこでもESS 部で活動しました。
 

夢に向かって励んでいる大学での講義中、「経済の世界は弱肉強食の世界である」と強く迫ってきました。企業間や社内で相手を蹴落とさなければ、会社や自分の存在が無くなる世界だと分かったのです。そして、「自分が頑張れば相手がダメになるのでなく、相手も良くなるものはないだろうか」と考えました。

その時、嫌いであった教師職を思い出し、「教師が頑張れば子どもも伸びる、これだ!」と、夢を外資系企業から教師職に転換しました。卒業後、教育学部のある大学へ行き、教員免許状を取得しました。

教師を目指すことがキリストとの出会い

宗教に全く関心はありませんでしたが、小学校での教育実習が宗教について考えるきっかけとなりました。休み時間に子どもたちから、友達や家族関係の深く厳しい問題を聞きました。奄美群島で平和に暮らしてきた私にとって、今まで経験した事のない事柄でした。

授業の指導方法は経験を積めば上達すると思いましたが、このような問題は自分の考えでは答えることが出来ないと思いました。その時、「人生いかに生きるべきかは宗教で学べる」と思い、どの宗教で学ぼうかと考えました。

滝に打たれ悟りを開く仏教は、根性のない自分には出来ない。イスラム教の学びは日本は難しい。キリスト教は「神は愛なり」と説いている。そこで、キリスト教会へ行って学んでみようと決めました。

しかし、何度か教会の前まで行きましたが、中へ入ることが出来ません。教会員にならないと礼拝に出られないのではと恐れていたのです。7度目に自分の意気地なさに嫌気がさし、思い切って飛び込みました。教会の方々は優しく迎え入れてくださり、そこで聖書の学びを始めました。

イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかり死んで下さったこと。そして3日目によみがえったことを信じ、通い始めて半年後、24歳の時にバプテスマ受けました。

交通事故の奇蹟的な癒しの後、神の声を聞く

教師生活に慣れてきた29歳の1885年11月27日、自動車事故に遭いました。反対車線から飲酒運転の車が猛スピードで突っ込み正面衝突したのです。助手席に座っていた私は瀕死の重傷を負いました。

1カ月後に目が覚め、病院の集中治療室にいることを知りました。頭の前頭部を強打した影響で、見舞いに来た生徒や知人の名前を誰一人思い出せません。2桁以上の足し算も出来ません。医師から高次脳機能障害と診断され、職場復帰は無理だと告げられました。

目が覚めてから1カ月後に退院しました。そして、退院1カ月後の検診で、脳の状態を見るために頭部のCTを取りました。奥から「何だ、これは!」と言っている医師達の声が聞こえました。医師は、以前のCT画像と、その日のCT画像を見せて下さいました。

以前の画像では、脳の前頭部が真っ黒に写っていますが、その日の画像では真っ白になっていたのです。「脳は完全に治っています」と言われ、その日から以前の記憶が徐々に戻ってきました。

それから1カ月後、学校の様子を見に行った帰りです。突然「祈りなさい」という声を聞き、「人や車が通るところでは祈れません」と答えると、「祈れ!」と強く語ってきました。私は、「分かりました。200 メートル先に家があるので家で祈ります」と答え、急ぎ足で家へ向かいました。

途中、お腹の底からグーっと込み上げてくるものを感じ、必死に堪えていました。「祈り」が込み上げてきたのです。家の中に入った途端、祈りがワーっと噴出しました。しばらくして、「牧師になります」という祈りをしていることに気づき、「なぜ、こんな祈りをしているのだろう」と思い祈りを止めました。

約1週間後に聖書を読んでいると、

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1章45節)

に目が留まり、「私はいつか牧師になる」という思いが消えませんでした。

結婚と献身への道

事故から約1年後、職場復帰をしました。事故の後遺症もありませんでした。それから職場の方の紹介で2度お見合いをしました。相手の方に「自分は将来牧師になります」と伝えると、次回から会ってくれませんでした。

3度目の見合いは、牧師の紹介でクリスチャンの方でした。2度目にお会いした時に「将来牧師になります」と語りました。彼女はしばらく考え、ルカ1章38節を用い「マリヤが言われたように『どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように』という心境です」と答えてくれました。

約1年後、33歳で結婚式を挙げました。

結婚生活5年目に入った頃、牧師になると言ったのに一向に動き出す様子のない私を見かねた妻が、「いつになったら牧師になるの?」と問いただしてきました。「献身の時期は神さまが決めることなので、私にはわからない」と答えると、妻は「教師で行くか、献身するか、決めないと人生設計が出来ない」と言いました。

妻に背中を押され、私たちは二人で牧師のところへ行き、「神さまから牧師の道へ声をかけられましたので、神学校へ行かせてください」と話しました。「信仰はすばらしいが、牧師として2点不足しているところがある。一人もイエスさまに導いていないこと、聖書の理解に乏しいこと」という返事でした。

その日、妻と二人で「イエスさま、牧師として召しておられるなら、救われる魂を送ってください」と必死に祈りました。翌日曜日、礼拝も終わりに差し掛かった頃「今日魂が救われる」という確信が与えられました。「主よ、誰ですか」と祈っていると、求道中の大学生に目が留まり、彼に「イエスさまを信じますか」と聞きました。

彼は「はい、イエスさまに従って行きたいです」と答えたので、信仰告白の祈りに導きました。また、同世代の夫婦と関わり、バプテスマへと導きました。これらの出来事より、牧師への確信を得ることが出来ました。

結婚式

それから2年ほどたち、妻と共に牧師へ3度目のお伺いに参りました。師は「教会役員として推薦するので、教会献身者として頑張ってほしい」と
認めて頂けませんでした。

そこで、妻が結婚前に通っていた教会の牧師に現状を話すと、「神の声に背いてはならない」と言って下さり、S牧師を紹介して下さいました。私たちは今の教会を出て、S牧師に神学校への推薦状を書いてもらうことにしました。

しかし、母教会の牧師の反対を押し切った私の素姓が神学校へ伝わっており、どの神学校にも入学を許可して頂けませんでした。

途方に暮れている時、S牧師から「まだ1つだけある。その神学校の牧師が今来ているので、話を聞いてみませんか」と言われました。それは、新設したばかりのリバイバル聖書神学校でした。神学校の説明を聞く中で、「これだったんだ!」と分かったことがあったのです。

10 年ほど前、神さまに「祈れ」と語られた後、幻を見たことを思い出しました。10 年間あの幻は何だろうと考えていました。その幻とは、「ザルで魚をすくうように人々を救うが、全て落ちていく。周りを見渡すと、厚い霧がかかっており、この霧さえなければ救った魂が落ちることはないのに」という
ものです。

説明会を聞いている時、厚い霧は悪霊の働きで、イエスさまの働きを阻害していると瞬間的に理解出来たのです。神さまは、この神学校に導くため他の神学校の道を閉ざしていたのだと感じました。

そして、3人の子どもたちを連れ、神学校のある愛知県新城市に引っ越しました。1996年4月、念願の神学校に入学しました。神学校以外でも、礼拝、家庭集会、伝道集会、教会スタッフ、全日本リバイバルミッションの働きなどを通し、多くを学び訓練させて頂きました。

子どもたちは、教会学校や賛美集会を楽しんでいました。特にZAWAMEKIの賛美では飛び躍りながら賛美をしていました。妻は、毎朝の早天祈祷を滝元明牧師夫妻と行い、最後の1年間は神学生としても学びました。滝元明牧師に卒業後どこで伝道したらよいか相談した時、私の状況を聞いた上で「両
親を見ながら郷里で牧会しなさい」とえられました。

祈っていると、

「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」(創世記31章3節)

のみ言葉が与えられ、沖永良部島で教会を始める決心をしました。

郷里伝道

1999年4月、沖永良部島の喜美留という地域で空きパチンコ店を借り教会をスタートしました。それから5年後の2004年9月、知名町余多に土地を購入し、現在の会堂を建てました。

教師を辞めることに反対であった両親でしたが、最初の礼拝から毎週来てくれました。教会が心配であることと、孫三人に会いに来たと思います。父は2007年12月、91歳でバプテスマを受け、2011年3月に召されるまで、一度も休むことなく礼拝に出席しました。

仏壇を大切にしていた母は、父が召されたら来ないだろうと思っていましたが、今でも毎週来ております。今年96歳になりますが、礼拝以外にも週1回聖書の学びをしながら、元気にしております。

父・母、子ども達と一緒に

沖縄との絆

2013年頃、教会で分裂があり落ち込んでいる時期がありました。友人の牧師から「沖縄でよい学びをしているので、行ってみては」と電話がありました。時間的にも経済的にも毎月沖縄へ行くことは不可能でした。しかし、翌月にはその二つが同時に解決され、主の導きを感じ、行ってみることにしました。

沖縄での学びを通し、「宣教とは方法論でない。自分自身が神さまとの深い関係を持っていないと神の業を進めることが出来ない」ということを強く教えられました。さらに妻もその学びに参加し、同じ思いで宣教の働きが出来ることを感謝しました。

また、そこで共に祈り合える牧師先生方と出会い、沖縄から3つの教会の牧師先生と教会員が沖永良部島に宣教に来て下さいました。

新たな展開へ

2018年3月、沖縄での学びが終わりました。寂しさもありましたが、今後は鹿児島本土の方へ広がりがあるのではと強く期待していました。すると、同年11月、鹿児島キリスト伝道協力会から、奄美群島(奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島)の教会の現状を報告してもらいたいとの連絡がありました。

私は鹿児島本土での会議に出席し、奄美群島の人口と教会数、教会のない島や教会はあるが無牧である島があること、ユタやノロが日常生活に強く影響を及ぼしていること等を報告しました。

翌2019年5月には、奄美大島にて「第1回・奄美群島の報告と祈り会」が開かれました。鹿児島本土から9名の牧師が来られ、私たち夫婦と奄美大島の3名の牧師と共に、奄美群島のために祈る時が持てました。次回はもっと多くの教団の牧師が集い、報告・祈り会を持つ準備をしていくことを確認しました。

さらに同じ月、沖永良部島にある3つの教会の牧師が初めて集まり、食事をしながら宣教についての話し合いを持つことができました。一人でも多くの奄美群島の人々がイエスさまにある祝福の道を歩めるよう、各教会だけの孤軍奮闘ではなく、助け合い、祈り合えることは本当に感謝です。今を待っていたかのように、宣教の協力関係が突如として広がり始めました。

私は、子どもの頃を過ごした奄美の島々と人々を愛しています。そして、今、この島々の救いのために立たされていることに、神さまの不思議なご計画を感じています。これから、沖縄、奄美群島、鹿児島の関わりが強められ、大きなリバイバルへと導かれるよう願っています。

奥様と一緒に

次の記事

v68 表紙