v69 教会いちゃびらや特別編

主の約束の中を生きる

今年宣教50 周年を迎える石嶺バプテスト教会の歩みと、

中尾孝善牧師・裕子夫人の証を紹介します。

石嶺バプテスト教会(1973年)

石がゴロゴロした不毛の地が、世界へ、地域へと発信する伝道拠点となる

1969 年、沖縄バプテスト連盟伝道部の開拓伝道計画により、連盟主導の伝道所として、石嶺バプテスト伝道所が始まりました。

ウィリアム・メドリング宣教師が先発の伝道者として遣わされ、那覇市石嶺にある私立みぎわ保育園の園舎を借用し礼拝が行われました。

1973 年、伊波盛次郎牧師が就任し、2階建ての教会堂が完成。1986 年に宗教法人を取得し「石嶺バプテスト教会」設立。これまで金城孝次牧師、古波津正則協力牧師、城倉翼牧師、東風平巌牧師、現在の中尾孝善牧師と牧会が引き継がれてきました。また、ゲイリー・ヴァーン宣教師、平良節子伝道師、スタンレー・マーレー宣教師、新垣勉協力牧師、藤田久雄協力牧師らが主任牧師不在の時代を支えられたことも教会の歴史に刻まれています。

「開拓当初、石嶺の地域は『イシンミ』と呼ばれ、人の寄りつかない不気味な土地だった。石がゴロゴロと転がり人が住む所ではなく、野獣や鬼が住む所と考えられていた」初代牧師の伊波盛次郎師は20周年記念誌の中で、そのような開拓当初の感想を書き残しています。

ところが、そこに主の教会が建ち、地域が変えられ、今年からはモノレール石嶺駅が開通するほどに繁栄しており、まさに祝福を受けた土地へと変えられています。

石嶺バプテスト教会は「世界宣教」と「地域伝道」の教会です。宣教師によって開拓され、無牧時代には多くの宣教師が関わり、東風平巌牧師がネパール宣教に従事されるなど、世界宣教のスピリットが流れています。

また、石嶺バプテスト教会が独自に設立した「OverMission Assistances世界宣教基金」は世界宣教の働きのための献金で、30年以上続けられています。

また、伊波盛次郎牧師が伝道熱心であったことと、城倉翼牧師により沖縄で初めてMEBIG スタイルの子ども礼拝が始まったことから、伝道の熱いスピリットが流れています。

恒例となっている「愛さんさんまつり」では、地域の小・中学校の合唱部が歌を披露するなど、教会は地域の子どもたちにとって身近な場所となっています。

今年宣教50周年を迎える石嶺バプテスト教会の主任牧師、中尾孝善師はますます地域に開かれた教会になりたいと語っています。

「『水が神殿の敷居の下から流れ出ていき、この川が入る所では、すべてのものが生きる』とエゼキエル47章に書かれています。祈りと賛美によって福音が水のように広がり、この地域の人々が救われ、み言葉を通して人生が変えられていくことを祈っています。」

み言葉を体験した地で信仰のチャレンジを誓う

高校時代に沖縄にて癒しを体験した中尾牧師は、不思議な導きで再びこの島を訪れます。ところが中尾牧師夫妻を待っていたのは、大きな信仰のチャレンジでした。宣教50周年を迎えた伝統ある会堂で話を伺いました。

選手として挫折し沖縄で回復を体験

中尾孝善牧師

中尾孝善牧師

私は福岡県北九州市の出身で、クリスチャンホームで育ちました。中学の部活動でテニスをしており、それに熱中していたので教会よりもテニスに心が向いていました。

その頃、私の所属していた教会には福岡の大学に通っている沖縄県出身の大学生、Aさんがいました。

彼は胡屋バプテスト教会のメンバーでした。Aさんは私のことをいろいろ気にかけて、ドライブや賛美集会に誘ってくれました。教会から心が離れていた私を、一生懸命イエスさまへと導いてくれたのです。

Aさんが大学を卒業して沖縄へ戻った年、私は洗礼を受けたいと牧師に相談し、中学3年のイースターに洗礼を受けました。私はその後、部活推薦の特待生枠でスポーツ科のあるテニスの強豪校に進学しました。

ところが、高校2年の時、持病であるアレルギーの合併症(アトピー性結膜炎)が悪化し、ドクターストップで部活を続けることが出来なくなりました。スポーツ推薦で入学し、特待生が集められたクラスにいるにも関わらず、部活も運動もできない状況に陥ったため、すっかり意気消沈してしまい孤独感に襲われるようになりました。

すでに沖縄に戻っていたAさんは、このような私の状態を知り、連絡をくれました。夏休みに開催される胡屋バプテスト教会のファミリーキャンプへ来ないかと誘ってくれたのです。両親も快諾してくれたので、私はキャンプに参加することになりました。

沖縄のキャンプでは、子どもたちが心から賛美したり、見ず知らずの私に話しかけてくれたことに感動しました。キャンプ中に熱を出してしまったのですが、子どもたちは私の体調が回復するよう、寝込んでいる私のもとへ祈りに来てくれました。

私はその時、子どもたちの行いを通して神さまの愛を感じました。キャンプの中で

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4章13節)

という御言葉が与えられました。このような私にも神さまが力を与えてくださることを知り、胸が熱くなりました。初めて御言葉を体験した瞬間でした。

福岡に戻ってからというものは、聖書が読みたくて仕方ありませんでした。まるで乾いたスポンジが水を吸い込むように、私の心にどんどん御言葉が入ってきました。

御言葉を通して平安と喜びに包まれ、思ったことをノートに日々書き留めるようになると、ますます御言葉の力を体
験していきました。聖書をもっと知りたい、もっと神さまのために生きたいと思うようになり、高校卒業後は神学校へ進学したいと考え始めました。

さらに、不思議なことに沖縄キャンプから戻ってきてからは、アトピー性結膜炎の症状が治まっていきました。目への合併症はそれから今日まで一度も発症していません。

このような癒しを通して、日常生活に不便を感じることがなくなり、快適に生活出来るようになりました。

献身者として立つと再び不思議な導きが

1998 年、東京基督教大学へ進学し、様々な学びと訓練を受けました。その中である経験をきっかけに、

「『わたしの顔を、慕い求めよ』と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」(詩篇27篇8節)

の御言葉とキリストの十字架がはっきりと示されました。偽善者である自分の醜さ、神に背を向けて歩んで来た自分がどれほど罪深い者かと悟らされ、深く悔い改め、何日も涙が止まりませんでした。

それと同時に、人々の救いのために全世界に福音を宣べ伝えるという私の使命を確信したのです。

2001 年に卒業し、福岡へ戻り、奉仕先の教会で伝道師として仕えました。その教会で、後に妻となる裕子と出会いました。

毎週礼拝で一番前の席に座り、食い入るようにメッセージを聞き、感動して涙を流している彼女の信仰深い姿に心打たれ、交際を申し出、2003 年に結婚しました。

2004年、私は牧師になるために、バプテスト系の大学である西南学院大学の神学部へ進学し、3年間学びました。卒業間近になり、周りの同級生は次々と赴任先が決まる中、なかなか進路が決定しない私は、御心を待ち望んでいました。

そのような時、沖縄で牧会をしている東京基督教大学時代の友人から、沖縄に無牧の教会があるから来てみないかと誘って下さったので、さっそく石嶺バプテスト教会に足を運びました。

そこでメッセージをさせて頂いた後、教会から正式に招聘を受け、2007年4月に赴任しました。高校生の頃に献身のきっかけが与えられた沖縄。この地で仕えることは、まさに主の御心だと確信し、主のご計画に感謝しました。

英会話のため訪問し聖書を知り、信仰へ

中尾裕子夫人

裕子夫人

2001 年、アルバイト先へ向かう道中で教会を見つけました。そこの掲示板には外国人宣教師の名前が書かれており、英会話教室を探していた私は、ここで英語が習えるかもしれないという軽い気持ちで、日曜日にその教会へ行きました。

その日のメッセージは

「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1章1節)から天地創造のお話でした。21世紀になったばかりの当時、私はノストラダムスの大予言などの影響を受けていたこともあり、「何のために生きているのか」「この世はなぜ存在するのか」など、将来への漠然とした不安の中にいました。

礼拝でのメッセージを聞き、私は神さまの計画のもとに創造されたと素直に信じることができ、今まで体験したことがないほど心がスッキリとしたことを覚えています。

私は、聖書の神さまをもっと知りたいと思い、礼拝と聖書勉強会に毎週参加しました。聖書の話は今まで全く聞いたことがなく、驚きの連続でした。

イエス・キリストが十字架にかかったのは私のためだったと知った時は衝撃を受けました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2章20節)

この御言葉を読んだ時、「これは私の御言葉だ、私もこのように生きたい」と思い、洗礼を受ける決心をしました。イエスさまを知った喜びと同時に、私の身を捧げたいという献身の思いもありました。

私が教会へ通い始めて数ヶ月経ったころ、中尾が伝道師として教会にやって来ました。牧師から紹介されましたが、今は聖書に向き合って自分自身が変えられる時期だと言って交際をお断りしていました。

そのような中、

創世記24章の御言葉を読んでいる時のことです。

アブラハムの僕がリベカのもとに来たとき、素直に従ってイサクと結婚する箇所を通して、神さまが私にもそのようにしなさいと語っているように感じました。

祈りの中で、「神さまに従います」と宣言して結婚を決心しました。

神さまのために共に働ける人が与えられた幸いを感謝しながら、2003年に結婚式を挙げました。

その後、主人が西南学院大学の神学部へ進学したので、夫婦で家族寮に入りました。卒業後は石嶺バプテスト教会への赴任が決まりました。私と主人は、沖縄で働きが始まることをとても楽しみにしていました。

4月に沖縄へ引っ越し、半年の準備期間の後、就任式は10月となりました。

そんな8月のある日、教会で庭の掃除をしている時に転倒してしまい、その際ホウキの柄で胸を強く打ちました。念のため病院で診察を受けると、思いがけず乳ガンが発見されました。

当時33歳だった私は、ガンの進行が早く、すでにステージ3に近いとの診断でした。その後、9月に部分摘出の手術を行い、10月に退院して無事就任式を迎えることが出来ました。

まだ来沖したばかりの私たちを教会のみなさんが励まし、支えて下さったことを今も感謝しています。乳ガンが見つかった日の朝、私たちは次の御言葉を読んでいました。

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

(ローマ4章19節~21節)

私たちはガンの発覚に驚きましたが、この沖縄の地で私たちの働きがあるという約束を、御言葉によって確信しました。体調が悪くなった時も、必ずこの御言葉に立ち返り、神さまの約束を思い出すことが出来ました。

繰り返される試練は確信へと変えられて

手術後はホルモン治療を続け、2年ほど経過は良好でしたが、肺、骨に転移が見つかりました。また、3年ほど前に肝臓に転移が見つかり、抗ガン剤治療を始めることになりました。

主治医と治療法について相談している時、私はクリスチャンで私の命は神さまの御手の中にあり委ねていることと、この世で生きる限り日常生活を送りながら神さまの働きを続けられる治療法を選びたいという私の思いを伝えました。

主治医は私の意見を尊重して下さり、抗ガン剤をいろいろ試して下さいました。味覚が無くなったり、食欲が無くなり下痢が続くこともありました。

また髪の毛が抜けることもありましたが、今は副作用の少ない薬と出会えたおかげで、病気には見えないと人に言われるほど、穏やかな日常生活が送れていることを感謝しています。

私は体の弱さを通して神さまにすべてを明け渡すことが出来るようになりました。自分の力で頑張ることが出来ないからこそ、私ではなく神さまがやって下さると信じています。沖縄での働きが始まった時に、そのような信仰が与えられたことを感謝しています。

また、病を通して、イエスさまをもっと近くに感じられるようになりました。それまで、死について考えることはありませんでした。

クリスチャンはすでに死に勝利しています。死の先には天国という素晴らしい世界が待っていることに疑いはありません。

ただ、死を考える時、「私は使命を全うしたのか? 天国で神さまの前に堂々と立てるのか?」

と、自らに問うようになりました。まだ何もしていないのに死ぬことは出来ません。この世で生きることが許され、この石嶺の地での働きが許される間、教会のみなさんと共にイエスさまを伝えて行きたいと願っています。

宣教開始より半世紀さらなる前進を誓う

中尾孝善牧師

この教会は石嶺の地で宣教を開始して50年の大きな節目を迎えます。

主の働きが続けられたことに主の約束があると信じています。私たちが沖縄に来て12年。石嶺だけでなく沖縄の人々が、神の愛を知り、様々な問題から解放され、自由になり、喜びをもって歩んでほしいと願い祈ってきました。

また石嶺には、3つの小学校、2つの中学校、そして1つの高校があり、近隣には団地もあります。その中心に石嶺バプテスト教会が建てられています。そのような地域の中で、子どもから高齢者まで、多くの年代が集い、神の愛を現わしていく教会として用いられるようにと祈っています。

私たち石嶺バプテスト教会は福音宣教の前進のために、これからも歩んでいきます。

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