v75 特集
それでも私は神様を信じる
「クリスマスの神様助けてください」
沖縄611霊糧堂世界宣教教会 協力牧師 田外 武由
多くの人は困難にあった時、神の名を呼びます。しかし、懸命に祈っているのに神が答えない時、あなたはどのように思いますか?今回は、神さまを信じる事を辞めなかった人に起きた奇跡の証、その一部をご紹介します。
現在87歳の田外武由牧師は、3度の死を乗り越えるという壮絶な人生を送ってきました。死の淵に立たされる度、神さまは彼を救い出されました。周りの人が助からないだろうと諦めても、彼はイエスさまを信じる事を辞めませんでした。
死の淵で神さまを求める
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10章13節)
1955 年の雪の多い年でした。東京の工業大学合格の知らせを受け取り、三年間の浪人生活から抜け出せると、喜びはひとしおでした。これから自分が求めていた勉強が出来るのですから。
北海道の寒さは、身体が凍り付くのではないかと思えるほどで、それが毎日続きます。「東京に行ったなら小遣いも必要になるから、少し働きなさい」と父親の紹介で、林業関係のアルバイトをして十日目のことです。トラックが、切り出された原木を運搬してきました。山のように積まれた木材の石数を計るために、上まで上っていきます。計り終えて降りてきた時、突然丸太が崩れました。
私は、大きな木材の下敷きになってしまったのです。その朝は雪が積もっていました。通常であれば、積もった雪を取り除いてから木材を積むのですが、それを怠り、雪の上にそのまま木材を積み上げたのでした。その高さは二階の屋根ほどありました。
心肺停止状態で病院に運ばれ、人工呼吸を施されて肺と心臓が動き出したものの、目が離せない状態が続きました。その時私は、意識の中で暗い道をとぼとぼと歩いていました。ずっと先方に、針の穴ほどの光が見えます。光に向かって必死に歩いても、その光との距離は少しも縮まりません。疲れ果て、その場に座り込んでしまいました。
暗黒の世界とはこの様な所なのか、あるいは自分が死んだのではないかと、途方に暮れてしまいました。そこで、自分が覚えている神さまと呼ばれる名を、片っ端から呼び始めました。しかし、なんの返事もありません。毎日父が祈っている仏さまも、毎日祖母が祈っている先祖の霊も、答えてくれません。
その時にふと、年の暮れに友人に誘われて行った教会のクリスマス礼拝のことを思い出しました。私はずっと、キリスト教は西洋の人々が信じる神さまであると思い込んでいました。
クリスマスは、神の子が人間として誕生した日であると、そこで聞きました。その神さまの名前を呼ぼうとしますが、どうしても思い出せません。教科書にも出る、覚えているはずの名前です。困り果てた私は、破れかぶれでこう叫びました。
「クリスマスの神さま、助けて下さい!」
すると、今まで暗闇で何も見えなかった所が、一瞬のうちに目も開けられないほどに光輝き、二人の天使が私の両脇を抱え、あっと言う間に、私の体が置かれている所に連れて来てくれたのです。
奇跡の生還
その時、誰かが話している声が聞こえてきました。「様々な治療を施しましたが、もう限界です」この人は誰のことを言っているのか、辺りを見渡すと両親と兄弟がそばに立っていました。
兄が「先生、万病薬のペニシリンという薬があるそうです。それを使って助けてください」と言っている声が聞こえました。起き上がろうとしましたが、体が全く動きません。それで、ニッコリと笑いますと、驚いた看護師は「先生、先生!」と叫びました。医師も「えっ!」と驚いた声を上げ、急いで看護師に治療の指示をし始めました。
点滴注射、酸素吸入、痛み止め注射の用意をするように指示をし、集中治療室に移されました。レントゲンを撮影し、数か所の骨折と肋骨にひびが入っていること。それに脊髄が曲がっているとの診断で、石膏でミイラのように体中を固められ、身動きが出来ない状態になりました。
さらに、打撲による内出血の場所が化膿してしまい、熱が四〇度近くまで上がりました。医師は急いでギブスの上半分切り取り、化膿を止める処置が始まりました。足、背中の数簡所をメスで切開し、様々な処置をしたようです。奇跡的に命拾いした私に、医師は「一生自力で歩くことは出来ません」と診断結果を告げました。
ようやく熱は下がりましたが、体の痛さと、頭が割れそうなほどの激しい頭痛に悩まされました。体は全く動かせず、二週間ほど経った頃、再びギブスで全身を巻かれてしまいました。痛さを和らげるためにヒロポン(覚せい剤の一種)が使われました。当時は、薬の種類も少なかったのです。その薬を注射すると数時間痛みが止まり、もう何処も悪いところが無いように思えるほど気分が良くなります。しかし、薬の効果が切れた途端、また激しい頭痛に襲われます。
*ヒロポン(戦時中痛み止め等に使用された、メタンフェタミンの商品名)
痛みと薬の副作用との闘い
長い間この薬を打つと廃人になると言われ、常用していた私の体は、徐々に蝕まれていきました。痛みから解放される快感が、いつしか薬に依存するようになり、痛みが出ると直ぐ薬を要求するようになっていました。
薬の副作用が出始めると、精神に影響を与え感情が非常に不安定になります。「小遣いを稼げ」と言った父親を恨み、健康な人を見れば「あんなやつより俺の方がずっと優秀なのに」とさげすみ、世間に対する憎しみが自分の中で大きくなって、心が張り裂けるように苦しくなりました。
新約聖書を手にする
そのような時に、見知らぬ外国人の方が見舞いに来ました。病棟の婦長さんはクリスチャンで、私のことを教会で話したそうです。その外国人はおぼつかない日本語で、一生懸命話して帰って行きました。
帰り際、「これ読みなさい」と小さな本を置いていきました。「新約聖書」と書いてありました。何が書かれているのか読んでみたいと思いましたが、自分の手に取って見ることが出来ません。婦長さんが病室に立ち寄る度に、聖書を読んで頂きました。外国人の方は宣教師で、時々、見舞いに来て下さいました。
聖書を読み進めていきますと、一つの疑問が湧いてきました。それは、イエスさまがいやした様々な病気のことについてです。婦長さんに尋ねても返答がありません。あまりにうるさく私が聞くものですから、日本人の牧師を連れて来て下さいました。世界文学全集に記されている西洋の神さまは、天地万物の創造主であり、メシヤ(教世主)であることは分かっていました。
しかし、西洋人のために十字果に架かり、西洋人を救うために来たと勘違いをしていました。
イエス・キリストを信じる
牧師から「イエスさまは、あなたの罪のために十字架に架かり死なれました」と言われましたが、半ば理解が出来ません。しかし、「クリスマスの神さま」と呼んだ時に、確かに助けてくれた神さまです。
「神には不可能なことがない」と書かれている神さまです。罪人と言われれば、「何も出来ない自分は罪人に違いがない」と考え、イエスさまを信じま
した。しかし、頭痛が始まりますと、父を憎む気持ちが出てきます。また、健康な人を見ると、嫉妬心が沸いてきます。
毎日、このような時が過ぎ去って行くばかりです。気分転換にと、家から参考書と教科書を持って来て勉強しても、一向に苛立ちは治まりません。「薬の副作用だ、これ以上使用すると骨まで腐る」と教えられ、どんなに頭が痛くても我優をすることにしました。(この頭痛は、50代まで続きました。)
ある日、牧師が訪問してきた時「私はいやされますか?」と、以前からの疑問をぶつけました。私を失望させないようにとの配慮でしょうか、「いやされる時もあるし、いやされない時もあります」と答えられました。
しかし、聖書のルカの福音書4章40節に、「イエスさまは人々に手を置いて、あらゆる病をいやされた」と記されていることはどうなのか疑問が残りました。上半身は多少動くのですが、下半身は全く動きません。夏でも冷たく、冬用の靴下を足に履いていたのですが、温かくなりません。看護師がマッサージに来てくれますが、「血が流れていないか、脊椎の関係で神経が切断しているのかもしれない」と、分かったようで分からない返事です。
いやされると信じて立ち上がる
当時の医療は、現在のように高度に発違した技術はありません。医療機器も考えられないほどお粗末なものでした。その中で医師は、手探りの治療をし、症例を探しては試みるといった具合です。これじゃ一向に埒が明かないから自分で歩く練習をしようと考え、まず、立つための練習を始めました。
立とうとしますと、床に転げ落ちるのです。落ちた後は体の痛みが激しくなります。何度試しても転がり落ちました。幾度転げ落ちたかわかりません。初め、アザだらけの体を見た看護師は、寝相が悪いと思ったようでした。誕生日に、牧師が大きな本を持って来て、「これを読みなさい」と言いました。包装紙を開けると、文語訳の聖書でした。
理解できない所を飛ばし読み、3ヶ月で読み終えました。今まで聞かされてきた言葉とはほど遠く、難解なことが多いのには驚きました。こんなに分からず屋の神さまが居るのか、嫌気がさした私は聖書を戸棚に入れ放置しました。7月の暑い日に、宣教師が訪ねて来てくれました。汗を拭きながら聖書の話をして下さるのですが、自分が読んだ難しい教えとは違い、とても分かりやすく理解が出来るのです。
生ぬるいカルピスを飲み、その後でアイスを食べ、「美味しいですね」と、母にお礼を言っておられました。そして、「聖書を読みましたか?」と聞かれたので「はい、読み終わりました」と返事をしますと、「読み終わらせてはいけません。聖書は毎日規則正しく読みなさい」と言われました。
「でも本は一度読めば、そんなに幾度も読まなくても良いのでは?」と聞き返しますと、「あなたが天国に行くまで読み続けなければならないのです。聖書は神のみことばであり、心の食物です。毎日、規則正しく食べて下さい」と宣教師は勧めて下さいました。
希望を捨てない
信じたとはいえ、まだ生まれたての赤ん坊のような私です。宣教師と牧師は、来るたびに希望を持つように教えて下さいました。「全能なる神には、不可能ということがありません」牧師が教えてくれた通りに、歩くという希望を決して捨てないぞ、と静かな闘志を燃やしていました。
牧師は私に、「ヨハネの福音書を読みなさい。幾度も繰り返して読みなさい。そうすれば、蜂蜜よりも甘くなります」と言って下さいました。私はその言葉を励みに聖書を読み、幾度も挑戦しました。
立ち上がっては床に崩れ落ち、その度に看護師は「いい加減に諦めなさい」と言って尻を平手で打ちますが、へこたれませんでした。12月、教会の兄弟姉妹が10人ほどでやって来て、讃美歌を歌い、「クリスマスおめでとう」と言って帰って行きました。入院して2回目のクリスマスが来るのだと思うと、嬉しさよりも悲しくなってしまいました。一生このような生活をしなければならないのか、深刻な気持ちになり珍しく落ち込みました。
イブの夜に姉妹がプレゼントをもって来て、「田外さん、ここまでいやされたのだから、これ以上神さまに無理を言わない方が良いですよ」と忠告をして帰りました。私は、「あらゆる病がいやされた」と聖書に記されている以上、神さまはいやされないはずはないと歩行練習に励みました。そして、やっと床に足が着くようになりました。
奇跡が起こる
6月末頃には、壁づたいに体の移動が出来るようになっていました。嬉しくて一日に幾度も立つ練習をし、一歩一歩と歩くことを想像しました。その後、自分の足で立つことが出来るようになり、足の力だけで少し移動することが出来るようになりました。ついに歩けたのです!
幸い、狭い病室はすぐに捕まえる物があり、ベッドまで戻ることができました。数日後、牧師が夏のバイブルキャンプの土産話しを持って、訪ねて来ました。実はその時まで、誰も私が立つことが出来るなど知りませんでした。私は、病室の窓際の手すりにつかまって外を眺めていました。入道雲が、西と思われる方角からもくもくと出て、大きくなって行く景色が見えました。
今までその様な景色になど無関心でしたが、少しばかりの心の変化に驚きました。そこへ牧師が来たのです。彼がベッドを見ると、寝ているはずの人がいません。廊下の壁に名前が記された札が下げられています。私の名前を確認しましたが、私はベッドにいません。
牧師は私が死んだと思い、慌てて看護師の詰め所へ行き「田外君はどうしましたか」と尋ねました。その声が聞こえますが、すぐにベッドへ戻れません。看護師が大きな声で「またやったのね」と言って急いで来ると、ベッドの側に転がっている私を探します。
しかし、自力で立っている私を見つけました。牧師は、驚きと嬉しさで声も出せず、我が事のように喜び、すぐに宣教師に電話を掛けに行きました。宣教師も急いで車で来て下さいました。看護師は、私をベドに寝かせて下さいました。その日、私が立ったと病院中大騒ぎです。主治医や、看護師達は信じられなかったようです。
主治医が回診に来てあれこれと調べ、満面の笑みを浮かべていました。私は牧師、宣教師と共に、主である神がいやして下さったと感謝の祈りを捧げました。