V79特集 幸せを求めて〜試練に耐える人は幸いです〜

比嘉信子さん

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」 ヤコブの手紙1章12 節

空から神さまがいつも見ている

1957 年、私は八重山にある黒島という小さな離島で生まれました。5歳の時に父の仕事で石垣島へ越し、そこで小学校時代を過ごしました。近所のお友達が教会の子ども礼拝に通っていたので、小学校4年生の時から私も通うようになりました。
 

牧師先生はメッセージで、「あなたが何か悪いことをした時、両親にバレなくても神さまがいつも空から見ているよ」と仰いました。この言葉は私の心に深く入りました。学校からの帰り道にある畑で、トマトなどを盗み食いし、空腹を満たしながら帰っていたからです。それからは、友達に誘われても盗みを断り、家に帰るようになりました。

突然の目の異常

6年生の2学期、自宅で裁縫をするため針の穴に糸を通そうとしました。しかし、どんなに目をこらしても針の穴が見えません。明るい場所へ移動し、針を目に近づけましたが、やはり針の穴は見えません。
 
目の異常が気になった母は、翌日私を眼科へ連れて行きました。診察を終えた医師は気の毒そうな表情で「あなたの目は、やがて見えなくなるよ」と仰いました。網膜色素変性症という病気で、治療法はないとのこと。非常に驚きましたが、いずれ見えなくなると言われても信じることなどできません。

しかし、小学校を卒業する頃には目はすっかり見えなくなってしまいました。「トマトを盗んだことを悔い改め、盗みをやめた私は目が見えなくなり、
トマトを盗み続けている友人達は全員目が見えます。神さまは、どうして悔い改めた私に罰を与えるのですか」それから、神さまなんていないと思うようになりました。

強い人になりたい

中学校は親元を離れ、本島にある沖縄盲学校へ進学。まず初めに点字を習いました。点字での読み書きを習得しなければ勉強ができないからです。次は歩行訓練。大きな石や穴があったらどうしよう、初めの頃は一歩踏み出すことさえとても恐ろく感じました。何度も転び、体中アザだらけになりましたが、一人でも歩けるようにと、先生は厳しく指導してくださいました。実際にバスに乗る訓練では、行き先を聞いても誰も答えてくれませんでした。まだ差別
が根強かった時代です。これから辛い人生が待っているんだと、現実を知り悲観的になりました。

学校には、さまざまな宗教を信じている人がいました。「この学校には、いろんな宗教を信じている人がいるが、お前は何か信じているか?神を信じるのはその人が弱いからだ。俺は神なんて絶対に信じない」ある先輩の言い放った言葉が、私に大きな影響を与えました。

「神さまを信じるのは弱い人なんだ。私は強い人になりたい。目が不自由でもバカにされないように生きて行きていく」と覚悟を決めたのです。中学校、高校と一生懸命勉学に励み、様々な資格を取りました。そうしているうちに、地位や名誉や財産があれば人は幸せになれると思うようになっていました。

盲学校卒業式にて

好きな仕事がしたい

盲学校の卒業生は、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を活かして就職していく人がほとんどです。しかし、目が見えないから就職先はその分野しかなく、本当にやりたい仕事ではないと思っている人が多く見受けられました。私は妥協せず、自分がやりたい仕事につきたいと思いました。その頃、本土で電話交換手の資格を取った卒業生の話を聞く機会がありました。私は話すことが好きだったので、この仕事がしたいと思い、両親に相談すると、はりきゅうマッサージの資格を取ったら電話交換手になっても良いと許可してくれました。

電話交換手で全国一位に

私は俄然やる気になり、両親と約束したはり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家試験に合格しました。卒業後は本土へ行き、電話交換手の資格を取ろうと夢膨らませていた矢先、父が自損事故を起こし意識不明に。幸い命は助かり、日常生活が送れるほど回復したものの、高次脳機能障害が残り、仕事を続けることはできなくなりました。父の収入が無くなり、私は働かなければならず、本土での資格取得への道は閉ざされてしまいした。就職先を探していると、沖縄コロニーという身体障害者授産施設にて電話交換手の訓練生を募集していることを知り、入所することができました。資格はありませんが、実際の業務は行わなければならず、必死で勉強しました。


働き始めてから2年半程立った頃、アビリンピック(全国障害者技能競技大会)の電話交換手部門に出場しないかとの話が舞い込んできました。応募資格には免許を有するとの記載はなく、千葉県で開催される大会に参加することにしました。

電話交換手時代

当日は、日ごろ培った力を出し切り、結果はどうであろうと悔いはないと思いました。ところが金賞を受賞し、全国1位になったのです。それにより資格を取る道が開かれ、障害者として沖縄県第一号の電話交換手の資格取得者となりました。沖縄に帰ってくると、思いがけず、多くの報道陣が詰めかけてきました。日本一になったことで、テレビ、ラジオ、新聞と驚くほどのマスコミに報道されたのです。また、たくさんの人に声をかけられ、称賛を受けました。一生懸命努力したことで、地位と名誉を手に入れたと実感。これで私は幸せになれると思いました。
 

しかし、2、3ヶ月立つと波が引いていくように世間は私を忘れていきました。どうしようもない虚しさに襲われ、自分の存在意義を見失い、死んだ方が良いと思うほどでした。その時、教会へ行っていた頃を思い出しました。人間には超えられない大きな力がある。神さまという存在がやはりいらっしゃるのだと思いました。

ある日曜日の朝「今日は日曜日、教会へいく日ですよ」と私の心に不思議な語りかけがありました。どこの教会に行けば良いのだろうと考えると、知人が「天久神の教会」に通っていることを思い出しました。場所は分わからないのでタクシーを呼ぶと、運転手も教会の場所が分からず、天久まで行ってその辺りの人に聞いてみることになりました。道中、声をかけた方がその教会の信徒とのことで教会へ案内してくださり、知人と会うこともできました。後で連れてきてくださった方を探しましたが、誰もその方を見ていないと言うのです。今でもその方が誰かわからず、もしかすると天使が案内してくれたのでは、そう思っています。
 
23歳、10年ぶりに教会へ通い始めました。しかし、友人たちに教会へ行っているとは言えず、洗礼も受けませんでした。「教会へ行くなんて信子は弱いんだね」と後ろ指を刺されることを恐れていたのです。

悲しみの中で神さまの愛に包まれる

周りの友人たちが次々と結婚していき、焦りを感じていた26歳の頃。私を好きだといってくれる方が現れ、特に断る理由もなかったので婚約をしました。ある日、日曜日の午前中は何をしているかと聞かれ、教会へ行っていると伝えました。すると数日後、「宗教の違う二人が結婚しても幸せになれるとは思わない」と、一方的に婚約を破棄されてしまいました。高慢なもので、私が結婚を断ることはあっても、彼が私を断ることなど夢にも思っていませんでした。裏切り、屈辱、様々な感情に押しつぶされそうになり、泣きながら叫びました。
 

「神さま、あなたがいらっしゃるなら、なぜ私をこんな目に合わせるのですか。私から視力を奪い、今度は女性としての幸せまで奪うのですか。あなたからの答えが得られないなら、私は自殺します!」


一晩中祈っていると、「そんなに答えが欲しいなら、聖書を読んでご覧なさい」と語られたように感じました。「聖書を読めと言っても、一体どこから読めというの」反発しながら本棚に向かい、最初に手に触れた聖書を読むことにしました。点字の聖書は分厚いので分冊になっています。私が手に取った聖書は、ヘブル人への手紙から黙示録までの新約聖書の最後の一巻でした。

ヘブル人への手紙を読み終えても心に響くものはありません。「読めと言われたから読んだのに、何も答えはないじゃないですか」そう文句を言いながら次のヤコブの手紙を読み始めます。すると、「試練に耐える人は幸いです」そう書かれている箇所がありました。「試練にあう人は不幸と言うんじゃないの。納得できません」そうつぶやきながらも読み進めました。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」 ヤコブの手紙1章12 節

ここまで読んでハッとしました。今までの人生、耐え難い試練がありました。それを乗り越えて、神さまと繋がった時、何にも代えられない、そして無くならない、永遠の幸せを神さまは下さるのだと悟りました。 「イエスさま、本当に申し訳ありません。今まであなたを受け入れることができず、隠れキリシタンの様に生きてきました。明日、牧師にお話しして、洗礼を受け、包み隠さずクリスチャンとして生きていきます」アーメンと言って顔を上に向けると、真っ暗闇の部屋の天井から青白い光が放射状に伸びてきて、私を包み込みました。神さまが現れてくださった、私は赦されたんだと感謝が溢れました。

1983 年4月に洗礼を受けました。「これからは障害を持つ人に神さまを伝えて行きたい。神さまは罰を与えたのではなく、愛していると伝えたい」という思いが強くなり、ハピネスハウスという聖書勉強会を開きました。視覚障害、聴覚障害、その他さまざまな障害を持った方を招き、伝道し、イエスさまを救い主と受け入れた方には、自宅から通いやすい教会へ繋げる働きを行いました。

25年ほど伝道を続け、30人以上がイエスさまを信じ受け入れました。

ハピネスハウスのメンバーと海で

神さまからのプレゼント

主人とは「かずらの会」という視覚障害者の集いで初めて会いました。話をしてすぐ、とても悲しみの深い人だと直感しました。聞くと25歳から目が見えなくなったとのことでした。それから一年後、ハピネスハウスにやって来ました。彼は聖書の学びの中でイエスさまを受け入れ、徐々に変わっていきました。

ある日、結婚を前提にお付き合いをして欲しいと点字の手紙を頂きました。当時、人生を神さまに捧げ、一生独身で伝道活動をしたいと思っていたので、「傷つけないでお断りする言葉をください」と祈りました。それから半年が経ち、そろそろ返事を聞かせて欲しいと声をかけられました。その夜もう一度、断る言葉を下さいと祈りました。翌朝の出勤途中、「彼は私からのプレゼントである。だから喜んで受け取りなさい」と、神さまが語られました。

しかし「犬や猫じゃあるまいし、プレゼントであげると言われても困ります。本当に私へのプレゼントというのであれば、私の心が彼に向くように変えてください」と挑戦的な祈りをしました。
 

すると、翌日から不思議なことが起こり始めます。朝起きると、彼も起きただろうかと思い、食事をすると、彼も食べているだろうかと気になるようになったのです。一時の気の迷いだと自分に言い聞かせるのですが、日に日に彼への思いは強くなっていく一方。

「あなたの心は彼に向いたのよ。神さまがあなたに勝ったのよ」と、もう一人の私が語りかけてきました。「わかりました。あなたが示すので私は彼と結婚します。どうなってもあなたが責任をとってください」

そして39歳の春、結婚式を挙げました。それから25年、一緒に教会へ通い、聖書を学び、病気などの困難も共に乗り越えてきました。その歩みの中で、「神さまは必ず良いことをしてくださる」という確信が与えられ、夫婦の絆は強くなり、信仰は深く揺るがなくなりました。結婚してよかったと神さまと主人に心から感謝しています。

結婚式

賜物を生かして

那覇の社会福祉協議会から小学校での講演依頼を受けました。講演の中では直接福音を伝えることはできませんが、子どもたち一人ひとりが愛されている存在であると伝えます。講演の感想文をもらうと、子どもたちがそのメッセージを受け取っていることがわかります。講演依頼が年間150回ほどになり、
好きでなった電話交換手の仕事でしたが、「語ることが神さまから与えられた賜物」だと、講演活動に重きを置くため、結婚を機に退社をしました。そして、沖縄福祉教育研究会という団体を立ち上げ、今まで一人で行っていた活動を4~5人のメンバーでやるようになりました。

今は若い世代へバトンタッチし、私の講演回数は減らしつつ、活動を続けています。また、障害者の自立支援相談員などの働きをしながら、主人が開業し
たシオン治療院にて施術もしています。

講演会の様子

本当の幸せをあなたにも

昔の私のように、絶望に苛まれている方、生きる意味を見出せずにいる方がおられると思います。神さまはあなたを良いものとして造られ、あなたを誰よりも大切に思い、愛しています。どうぞ聖書をお読みください。あなたが望むなら、神さまは必ず答えを与えてくださいます。

地位、名誉、財産は無くなります。人は去って行きます。しかし、イエスさまの愛は決して無くなりません。皆さんがその愛を受け取り、失うことのない本当の幸せをの中を歩めますようお祈りしています。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」 ピリピ人への手紙4章6・7節

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