v89特集

里子の私が愛と出会うまで

金城宏道さん(24)
金城さん

愛を知らずに生まれた

私は糸満市で生まれ、父と年の離れた兄ふたり、2歳下の妹と暮らしていた。両親は早くに離婚し、母親の顔を知らずに育った。

父は、アルコール依存症に苦しみ、働くことができなかった。ご飯を作ってもらったことも、遊んでもらったこともない。そんな父だったが、私にとってそれが当たり前だったので、特に父を嫌いになることはなかった。また、父は優しく、叱ることもなかったが、今振り返るとアルコールの影響で、私たちをしつけ育てることができなかったとわかる。

私は、幼いながらも寂しさを紛らわすように、いつも明るく振る舞っていた。傍目から見れば活発な男の子に見えたかもしれないが、心の中では孤独と物足りなさを感じていた。

 

住まいを転々とする少年時代

小学2年生の時、私たちを心配した父の弟である叔父は、私と妹を住んでいた千葉県に呼び寄せた。父が少し太ったような風貌の叔父を「お父さん」と呼び、千葉県での生活にもすぐに慣れた。ただ父と違ったことは、しつけをしてくれたことだ。

欲しいものがあれば、親にお願いして買ってもらうことを知らなかった私は、学校で流行っていた折り紙欲しさにお店で万引きをしたことがあった。すぐ店員に見つかり、叔父が迎えに来た。家に帰ると、叔父は孫の手で盗みを働いた手のひらを叩いた。その時、初めて盗みが悪いことだと知った。

小学3年生になると、実家に帰ることになる。「今度は沖縄に住むのか」くらいの感覚で、叔父と離れることに寂しさを感じることはなかった。家族に対する愛着を知らずに育ったから、それほど寂しく感じなかったのかもしれない。

実家に帰ると、変わらない父の姿があった。特に会話をするわけでもないが、父のことが嫌いなわけでもない。しかし、父との特別な思い出、それもまたない。

小学4年生になると、南部地域の児童養護施設に預けられた。その時も「次はここに住むのか」くらいの軽い気持ちだった。しかし、施設での生活は初日から過酷だった。職員の見えないところで、先輩から受ける陰湿ないじめ。遊び半分で喧嘩の大会が開かれ、無理やりエントリーされた。従わなければ殴られるのは目に見えており、言うとおりにするしかなかった。喧嘩に負ければいじめのターゲットにされるから、ヤケクソで相手を打ち負かすと、先輩たちから歓迎の意味を込めた熱い抱擁が贈られた。

「ここでは強いヤツが認められる」そう悟った。しかし、「弱い者いじめをしたくない」という思いもあり、中途半端な不良少年を演じて過ごした。悪い友だちと一緒に学校をサボったりする一方、優しい友だちと過ごす時間のほうが心地良かった。

自分の居場所を見出せず、自分に何が足りないのかもわからない。だから悩まないことにした。悩まず明るく振る舞う、その方が楽だった。

千葉にいた頃

 

愛が欲しいと感じた中学時代

中学生になると、妹と一緒に中部地区に住む里親に引き取られた。そこには、私と同じような境遇の子どもが数名暮らしており、家の雰囲気はとても良かった。その家のお母さんはカトリック教徒だったので、毎回食事の時には、戸惑いながらも一緒にお祈りをした。

中学校登校初日。思春期ということもあり、周りとすぐ仲良くなることはできなかった。南部から移り住んできたことも相まってよそ者扱いされ、それがいじめに発展していった。日に日にエスカレートするいじめに耐えられず、里親に「もう学校に行きたくない」と助けを求めた。里親は優しく「無理して行かなくてもいいよ」と言ってくれた。

家での一人きりの時間に、今まで心の奥にしまい込んでいた感情が湧き上がってきた。「自分を大切にしてくれる親がいたらどうだったんだろう」「親がいればこんなことには」悩まないように生きてきたが、この時ばかりは葛藤の渦の中でもがいていた。「たぶん、俺に足りないのは愛というやつだ」でもそれがどんなもので、どこにあるのかもわからない。「俺は里子で、預かってもらっている身なんだ。愛なんて、一生手に入れることはできないのかもしれない」そう諦めるしかなかった。

元塾講師だった里親は、時間をさいては家にいる私に勉強を教えてくれた。教えるのがとても上手で、勉強はかなりはかどった。特に好きになった英語は、教科書すべてを丸暗記してしまうほど身についていた。勉強面での心配がなくなったことで、少し気も楽になった。

里親の励ましもあり、保健室登校を始め、2学期にはクラスに戻ることができた。初めは気まずい雰囲気だったが、授業を受けると家ですでに習った内容で簡単だった。特に英語は、聞いただけですべてがわかった。「勉強ができる宏道」は、いじめられっ子から一気にクラスの人気者になった。

親身に勉強を教えてくれた里親に感謝した。しかし、愛に対する飢え渇きが満たされることはなかった。部活の送迎に来る友だちの親の車を見る度、寂しさがやってくる。持ち前の明るさで隠そうとしても、心の奥はいつも孤独だった。学校生活は楽しかったが、心の中では「愛」という、今後味わえるのかわからないものを切望していた。

神さまの愛に触れた高校時代

高校に入学する頃、別の里親の元へ行くことになった。その家庭もクリスチャンで、私が英語に興味があると知り、彼らが通っている外人教会に行ってみないかと誘ってくれた。断る理由もなく、言われるがままついて行くと、教会はアメリカ人だらけ。「うわー、ここアメリカじゃん!」扉を開けると、そこらじゅうで英語が飛び交っていた。聖書の話には特に興味はなかったが、英語に触れられるというだけで教会へ行く理由になった。それから毎週教会へ行くようになった。

しかし、教会へ行けば行くほど私の頭の中には、はてなマークが増えていく。

教会の人たちはなぜ、赤の他人である私にこんなによくしてくれるのだろう。楽しそうにイエスさまという神さまの話をする彼らは、キラキラと輝いて見えた。それにここにいると、自分のすべてが受け入れられているように感じた。里子として、引け目を感じて生きてきた私は、自分の本当の思いを打ち明けたこともなければ、誰かに受け入れられていると思ったこともない。でも、教会にはそれがあるような気がした。しかも、賛美を聞くとなぜか涙が溢れてくる。「多分、これが俺が欲しいと思っていたものだ。神さまが俺のことを愛していると牧師先生が話していた。これが俺の欲しかった愛なんだ」

日を追うごとに、心の孤独の影は神さまの愛によって小さくなっていった。次第に、イエスさまを救い主と受け入れる思いが、心の中に芽生えていった。高校1年の夏休み、教会のユースキャンプに参加する。みんなで賛美を歌ったり、ワイワイする時間は楽しくてしょうがなかった。

「宏道、こっちにきて話そうよ」ユースリーダーが声をかけてきた。

話の節々で、イエスさまの話をする彼の言葉に「俺もイエスさまを信じたい」そう思った。「宏道、イエスさまを信じないか?」そう聞かれ「うん、信じる」と答えていた。普通の人が当たり前だと感じている人と人との繋がり。さらにイエスさまの愛で繋がれたその関係に触れた時、その愛が私を救いへと導いていったのだ。

「イエスさまのことをもっと知りたい」夏休みが終わる頃、心境の変化が起きていた。

日曜日だけでなく、水曜日の夜の礼拝と、金曜日のバイブルスタディにも通い始めた。学校でも授業の合間に聖書を読み、みことばへの飢え渇きは日に日に増していった。クラスメートたちは、聖書を読んでいる姿を不思議そうに見ていたが、時々質問してくるようになり、クリスチャンとしての私を認めてくれた。

教会生活は何より楽しかった。特に賛美の時間は、大声で神さまを賛美し、これまで感じたことのない感動と喜びに満たされた。里子として引け目を感じていた心も少しずつ回復していき、素直に自分の思いを人に伝えられるようになっていった。

父の死と久しぶりの家族

高校2年の冬、父が亡くなった。64歳だった。

アルコールが影響して体を壊していたのだ。今まで、無意識のうちに感情を押し殺していたが、こんなに悲しくて泣いたことはなかった。「父さんにイエスさまのことを伝えられなかった」その悔しさが追い打ちをかけた。
  
仏式で行われる葬儀では、遺族が初めに焼香をする。千葉から来ていた叔父に「自分は宗教が違うからお焼香はしません」と告げた。叔父は一言「そうか」と言い、受け入れてくれた。葬儀が終わる頃、久しぶりに会う兄たちや親戚と昔話をし、少し気が楽になった。

進路を決める

高校3年。国の法律で、里子は18歳を過ぎたら独立しなければならない。

進路に悩んでいると、教会のバイブルカレッジ(神学校)へ行く選択肢があると知った。国に認可されていない大学や専門学校は、進学後に国から里子へ与えられる経済的な支援が受けられない。進路指導の教師も、そのような選択肢を選ぶ生徒は初めてだと心配していた。経済面の心配がある一方、聖書の学びがしたいという思いの間で揺れていた。

そこへ、あのユースリーダーがやって来た。「バイブルカレッジに来たら毎日がキャンプだよ!」その一言で期待が心配を上回り、バイブルカレッジ進学を決意した。進路指導の教師に「俺、牧師になります」と言うと、どうにか納得してくれた。

卒業文集には「牧師になれるように頑張れよ」とクラスメートからたくさんの応援メッセージが書き込まれていた。

バイブルカレッジ

とは言っても、経済的な問題は解決されたわけではない。

牧師に相談すると「大丈夫、必ず神さまが助けてくださるから」と祈ってくださり、言いようもない平安に包まれた。その後、試しにと書類を送っていた支援団体から、毎月支援金が送られることが決まったのだ。その支援金で授業料が払えることになり、毎月授業料を納める度に、感謝が増していった。

学生生活は、授業、レポート、教会の奉仕とハードな毎日だったが、同じ志をもった仲間の存在で乗り越えることができた。漠然としていた牧師になりたいという思いも、「私はこの働きに召されている」と確信を持つようになった。

バイブルカレッジにて

結婚、母との再会

バイブルカレッジを卒業し、教会の副牧師として22歳から仕え始めた。翌年、バイブルカレッジの同期生だった妻と結婚。24歳の現在、子どもが与えられる恵みに預かっている。


結婚式の前にも神さまは奇跡を見せてくださった。

戸籍の手続きの準備をしている時、母に会うなら今しかないと思った。バイト先の同僚が共に母探しに奔走してくれ、ついに居場所を突き止めた。「母に会える」と嬉しさが込み上げてきた。

同僚の付き添いの元、母の自宅を訪ねた。母は私を産んだ頃に目の病気になり、ほとんど見えていない状態だった。何を話せばいいのかわからなかったが、父が亡くなったことと、もうすぐ結婚することを伝えた。

母はその時初めて父が亡くなったことを知ったそうだ。結婚については喜んでくれ、結婚式に出席すると約束してくれた。わずかな時間だったが、神さまに心から感謝した。

結婚式当日、家族や親戚が教会にやってきた。母も約束通り来てくれた。みんな教会は初めてのようだった。式では、妻と二人で賛美を歌い、両家に対する愛と感謝を表す時となった。

結婚式

愛された者として

私は、キリストの愛を知った。幼い頃、得ることのできなかった両親の愛。誰かに愛されることは諦めるしかない、叶うはずのない夢だと思っていた。あの頃の私を思い出すと、今のこの状況は想像すらできない。結婚して家族が与えられるなんて、イエスさまは本当に愛のお方だと日を追うごとに噛み締めている。

私のように、愛されることを知らずに育った人がいる。愛されることを望んではいけないと自分に言い聞かせている人がいる。イエスさまは、その人たちを愛するために天から来られた。

「イエスさまは、どんな人でも、どんな状況にいても、あなたを愛してくださる方だ」私にその愛を伝えてくれる人たちがいたように、これからは牧師として、イエスさまの愛を伝える人として、人々を愛する人として、生きていきたい。

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」ピリピ人への手紙4章4〜6節

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