v90特集

この神さまは生きている

當眞優希アキリマリさん(30歳)

ラッパー、Akilimali。みことばを紡ぐ彼の楽曲は、キリストへの愛と情熱で溢れている。自らをキリストに明け渡したその赤裸々な証は「ただ主の栄光のために」の一心であった。放蕩な人生を歩んでいた彼を変えたのは、今も生きているイエス・キリストの愛、ただそれだけだった。


ラッパーAkilimali

私は那覇市で生まれ育った。シーミー(清明祭)やお盆など、祖先崇拝をする家庭だったが、アメリカ人の父は食前にクリスチャンがやるお祈りを家族にさせていた。私の記憶では、父が教会に行ったのを見たことはなく、クリスチャンらしいこともしてはいなかった。しかし、今思うとすでに神さまの計画が始まっていたのかもしれない。

祈りの力強さ

キリストに出会ったのは21歳。就職した会社の先輩が、一緒に営業へ行くたびに、ひとりで何かぶつぶつ言っていた。「先輩何やってるんすか?」と尋ねると「俺、クリスチャンだから、仕事前はいつも祈ってるんだよ。祈ったら営業もうまく行くしな」と言う。営業に苦手意識のあった私は、それで上手くいくならと軽い気持ちで「俺も祈っていいっすか?」とその日から一緒に祈り始めた。

驚くことに、祈ってから営業にまわるとアポが取れる。「先輩、祈ったらアポ取れますね!」とキリストの力の凄さに衝撃を覚えた。営業成績が右肩上がりになって有頂天の私に先輩は、「イエスさまのおかげだろ、お前の力じゃないぞ」と釘を刺してくれた。

 

お前もイエスさまを信じないか

ある日、先輩と焼肉屋に行った時のこと。色々話し込んでいるなかで、イエス・キリストのことを話してくれた。私はもともとキリスト教には「かっこいい」というイメージを持っていた。というのも、海外の映画に出てくる教会やゴスペルクワイアが好きだったからだ。しかし、先輩の話は「かっこいいキリスト教」以上の凄さを感じた。

イエスさまは、すべての人の罪を負って十字架にかかったこと。死んだ後、神さまの力で復活したこと。人間は皆罪を持っており、イエス・キリストを信じれば罪が赦され天国に行けること。そして、どんな弱さがあってもイエスさまは助けてくれるのだと。

イエスさまについて語る先輩は、私にはない堂々とした強さを持っているような気がした。さらに、自分の弱さを認める潔さがかっこよく見えた。何より、とても温かいものを感じた。私は先輩の話を、疑うことなく素直に聞き入っていた。「お前もイエスさまを信じないか?」「はい。信じます!」二つ返事だった。

後日、先輩に紹介された教会へ行き、導かれるままバプテスマを受けた。その時受けたのは、頭に水を軽くかけるような滴礼というスタイルで、正直「こんなもんか?」と思った。聖書やイエスさまの深い話は知らないが、ただイエス・キリストを救い主と受け入れただけ。これが、私の信仰の始まりだ。

 

弱さを示される神

その時の私は「イエスさまを信じたから、死んだら天国に行ける!」くらいの軽い気持ちだった。それもそのはず、当時は聖書の勉強など一切していなかった。多くの若者が普通にしているように、クラブに行って酒を飲み、女性に声をかける。

友達同士で結成したHIPHOP グループにも所属しており、汚い言葉でさえカッコイイと思っていた。イエスさまを知る前は、これらは悪いことでも何でもなかった。聖書に書かれていた「罪」というワードがうっすら頭をよぎるが、楽しいことはやめられない。先輩から聞いた「悔い改め」という単語の意味など理解していなかった。

ある日、「俺もクリスチャンなんだし」と軽い気持ちで聖書を開いてみた。最初に目に飛び込んできた言葉は「姦淫」だ。「何それ?」と読み進めると、あまり良い意味じゃないらしい。しかも男女のことに関係するようだ。目と耳が痛くなり、その日は静かに聖書を閉じた。

別の日、聖書を開くと、そこにも「姦淫」の二文字が鎮座していた。辞書を開いて意味を調べる。そこには、夫婦における不貞行為と書かれていた。「そうか、夫婦間の問題なのね。じゃあ俺は大丈夫じゃん」と自分を正当化するために、捻じ曲げて解釈した。

イエスさまの舌打ち

それからというもの、罪悪感に後ろ指を刺されている気がしてならない。聖書を開くたびにそれが続くのだ。神さまが私に語っていることになんとなく気づいていたが、同時にそれを認めたくない自分もいた。

その後も姦淫の単語を目にしたが「結婚していない、彼氏もいない女の子なら大丈夫!」と自分に言い聞かせた時、イエスさまが頬杖をついて「チッ」と舌打ちをしているようなイメージが頭に思い浮かんだ。多分、イエスさまは「こいつ、どうしようもねーな」と思っていたに違いない。

信仰生活とも言えない生活を送りながら、仕事では転職を繰り返し、勤め先の会社が倒産するなど、上手くいかないことが続く。そんな時、「お前は東京に行け!」とよく遊んでくれた先輩から激励を受け、軽い気持ちで上京。

神さまはそこでも私を見捨てなかった。ルームシェアしてくれたのは、以前同じ職場だった先輩。彼はクリスチャンではなかったが聖書を二周も読んでいた。私よりも聖書を良く知っており、呆れ顔で「クリスチャンなら聖書くらいちゃんと読んだほうがいいよ」とはっきり言ってくれた。

悔い改め

女性関係については、罪だと分かっていたがなかなか難しく感じていた。しかし、情事に及んだ数日後、身の危険を感じるほどの恐れを感じた。それは、目に見えないイエスさまへの畏れに変わり「イエスさまごめんなさい、もうやめます」と、ついに白旗をあげた。同時期に先輩の「教会にも行ったほうがいいよ」の言葉に背中を押され、その週から近くの教会へ行き始めた。 

何度か通ううち、牧師からバプテスマを勧められた。以前滴礼で受けたと伝えると、全身水に浸すバプテスマを受けることになった。そして、バプテスマのための勉強会をしてくれた。罪の悔い改めや霊についてなど、今まで知らなかった多くを教えてもらった。

3日間の断食を終え、いよいよ迎えたバプテスマ。信仰告白やこれまでの罪の告白など、私には必要な時であった。教会にあった浴槽で全身を水に浸し、「これからは神さまのために生きよう」と、その時の私なりに一大決心をした。

帰り道、来る前に買ったタバコはまだ3本しか吸っていなかったが「せっかく悔い改めてバプテスマも受けたんだし」とゴミ箱に投げ入れた。不思議とその日からタバコを止めることができ、吸う気も起こらなくなった。今は稀に貰いタバコをしてしまう時があるが…。

バプテスマ式

ラップは罪

今までの生活から離れようと、クラブ通いをやめ、好きだったHIPHOP も聞かなくなった。しかし宗教的になりすぎて、一緒に音楽活動をしていた仲間たちに「ラップは罪だ!」とか、あれもこれも裁いてしまい、仲間との間に溝ができていった。


SNS 上でも偏った発信をし、聖書のみことばを用いて裁いていた。当時は、悪い意味で聖書のみことばは絶対だと自分や他人に言い聞かせていた。にもかかわらず、聖書に書いてあるいやしや奇跡など不思議な出来事を心から信じることはできなかった。つまり、当時の私にとって、イエス・キリストは単なる宗教でしかなかったのだ。
 

しかし、それから少しずつこの神さまが今も生きているということを知るようになっていく。それは、神さまからの一方的な愛以外にはなかった。

教会に居候

荒削りな信仰しかなかったが、とりあえず毎晩聖書を読んで祈っていた。次第に神さまに対する飢え渇きが強くなっていった。


しばらくして、「大阪の教会で住みながら生活できるよ、行ってみたら?」と教会のメンバーから勧められた。突拍子もない話に「マジっすか!面白そうですね!行きます」とこれまた突拍子もなく食いついた。早速仕事を辞め、数日のうちに大阪へ。
 

大阪では教会に居候、毎日が礼拝みたいだ。そこで、ヘブライ語を喋ることができる教会メンバーの興味深い話を耳にした。「神さまの声を聞いたら立っていられないわよ」その晩から、毎日同じみことばを読んではひたすら祈った。「神さま、俺にもはっきり声を聞かせてください」

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」ヨハネの黙示録4章8節

神さまの声

祈り続けて2週間ほどが過ぎた夜のことだ。寝ている時に、今まで聞いたことのないほど大きな雷の音で目が覚めた。その雷の中で語りかける声を聞いた。「声が聞きたかったんでしょ?」あまりの衝撃に思わず身を屈めて「わかりました。わかりました。もう十分です」と唇を震わせ、雷の音が止んでもしばらく動けずにいた。外を見ても雨は降っていないし、曇ってもいない。

誰も信じてくれないかもしれないが、この日から聖書に書いてあることはすべて真実だと悟った。この神さまは今も生きて働いていて、聖書に書いてある信じ難いことのすべてが、作り話でも空想でもない。それから聖書を読むと、本当に今まで同じ本を読んでいたのかと思うほど、目から鱗が落ちる発見と感動ばかりだ。

あれから、日を追うごとに神さまの愛を感じるようになった。賛美を歌うと涙が溢れ、みことばを聞くと自分はこんなにも愛されているんだと深く感動する。奇跡を見なくても、体が感じても感じなくても、神さまの愛が私の心の中で直に働いているのがわかる。

ラッパーとして再始動

改めて聖書を読むと、罪はどんなに宗教熱心な行いをしても解決できず、ただイエスさまの十字架だけが解決の道だと悟った。自分の力でどうにもできないなら、どれだけ神さまに頼って生きていかなければならないのか。ことあるごとに祈って神さまの御心を知ろうとした。

そうすると、今まで裁いていた仲間たちに対しての接し方が変わった。相手の話をよく聞き、本当の仲間として寄り添いたいと思えるようになった。中には、酒浸りになったり薬に手を出す奴もいた。彼らの心の底には、孤独や他人に言えない傷があった。時には神さまの愛を伝えたり、一緒に祈ったりもした。

ちょうどその頃、ゴスペルラップがあることを知った。好きなラップで神さまの愛を伝えたい。以前の私と同じような環境にいる人たちも、神さまに愛されていることを知って欲しい。そんな思いの中、私のミドルネームをとってラッパー「Akilimali」として再始動した。

クラブでのライブパフォーマンス

ただイエスさまのために

これまでに、仲間やクリスチャンアーティストの方と曲をリリースして、教会やライブハウス、クラブでもライブをすることができた。世の中はお金や遊び、成功、様々な欲望や快楽で心を満たすことばかりを教えている。しかし、私たちの魂を満たすことができるのは、イエス・キリストただ一人と言うのはクリスチャンなら承知の事実。

だから、この証しを読んだ人にお願いがあります。どうか私のためにも祈ってほしい。音楽業界は華やかであると同時に、誘惑や悪い力も働いている。この業界に身を投じて福音を伝えることの困難さを、これまで痛感してきた。終わりの時代、神さまの愛をたくさんの人が知って、救いを受け取ることができるように。ただ主の栄光のために、覚えて祈ってくれたら何より嬉しいです。

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