Daily Testimony#33
日常に隠れたイエスさまの祝福を探し出し、ほっこりしませんか。日々の証しを、家族や友達とシェアすると、私たちの内側から主の喜びが湧き上がります。笑いに涙に、何気ない会話の中にイエスさまは祝福を隠しておられます。
それでも私と私の家とは主に仕える(30代男性)
私は20代で献身し、牧師として教会に仕えてきた。
数年前、本土の教会で仕えるため沖縄を離れ、妻と子ども達と共にこの地に移り住んだ。初めての地、新しい教会生活はスタート時こそは勢いもあり楽しく過ごしていた。
現実問題として経済的な不足が私の心に不安をもたらしたが、元々自負するほどポジティブな性格であったから、どんな問題があっても笑顔で明るく振る舞うことに徹した。しかし、移り住んでから新たに子どもも生まれ、毎日生きていくのがやっとの状態に男としての自分の非力さを痛感させられるようだった。
教会ではイエスさまへの信仰と、みことばに約束されている希望をメッセージするも、自分の心の奥深くにある不安は拭い去ることができずにいた。笑顔の裏には不安が付き纏い、いつしかそれは神さまへの不平不満に変わっていった。
その間に、牧会と並行して運送会社に勤める事になった。大型免許も持たずに、どうになかるだろうと軽い気持ちで応募して面接を受けにいくと、奇跡的に合格することができた。
右も左もわからない未経験のため、とにかくなんでもやろうと書類の制作からトイレ掃除まで片っ端から引き受けた。運送会社の従業員は気の荒い人が多く、何もわからない私は毎日先輩達に怒鳴られながら仕事をしていた。それはそれは、本当に心が折れそうになった。
「牧会をしにきたはずなのに、何をしているんだ俺は」と不甲斐ない自分を責める毎日。
それでも、聖書にある通り心から会社に仕えようと努力した。そのうち、免許所得補助制度のおかげで大型免許を取得。運送の仕事もまかされるようになり、誰もやりたがらないような仕事を率先して引き受けた。
しかし、仕事に忙殺され牧会の働きから心は離れ、信仰面で迷いが生じるようになった。「こんな自分が牧師なんてやる意味があるのか」最初の勢いはどこかへいってしまい、牧師のくせに個人的に聖書を読まない日が何日も続いた。
同じ教会で一緒に仕えていた先輩の牧師は、私の状態を知って奉仕の働きを休むよう進めてくれた。しかし私は「他にも牧師がいるのだから、もう牧師を辞めていち教会員になったほうが楽だ」などと考えていた。そんな私の心を知ってか知らずか「お前のポストは開けているから今は休め」と先輩は励ましてくれた。
奉仕から離れて聖書を読まない日が続く中でも、心に植えられたみことばがことあるごとに湧き上がり励ましを与えてくれた。知っているつもりだったが、今まで奉仕を続けられたのも信仰を守れたのも、自分の力ではなくすべて神さまの恵みだったことを身をもって知った。
そんなある日、一つの聖句が強烈に心に響く。
私と私の家とは、主に仕える。ヨシュア記24章16節
このみことばは私が献身を決意した日に、父がプレゼントでくれた聖書の最初のページに書いてくれた聖句だ。「俺は神さまのために生きるんだ」あの頃もそう思ったが、今回は当時よりも強く深い思いが湧き上がってきた。そして、腹の底から神さまの力がみなぎるようだった。
どんなに苦しくても、自分の弱さに打ちのめされてもイエスさまに仕えよう。ポジティブを装う必要はない、すべてイエスさまに委ねよう。もっとイエスさまを信頼しよう。そう信じ始めてから、日に日に心はいやされ奉仕への意欲も再び湧いてきた。
そして、近々奉仕に戻る事になっている。正直、あまり自信がない。この状態で奉仕をして良いのかとさえ思う。しかし、神さまの召しに答えたいと思っている。イエスさまはいつも備え、励まして救ってくれたのだから。弱さや足りなさがあっても、それでも用いてくださる神さまに私は仕えていきたいと思う。
これまで祈ってくれた教会のみんなと、いつもそばで支えてくれた妻と子どもたちに心から感謝します。
そして、私を見捨てず愛してくれるイエスキリストに、すべての感謝と栄光を捧げます。
私と私の家とは、主に仕える。ヨシュア24章16節
God bless you