V77特集 コミックで知った聖書の言葉
上田ぢゃかさん
私は北海道の函館で生まれました。学生時代を京都で過ごし、大阪でミュージシャンの夢を追いかけ、その後はウチナームークとして沖縄にやってきました。幼少期を過ごした函館の街には、プロテスタントの教会だけではなく、東方正教会やカトリック教会などが多く建ち並んでいました。父がキリスト教精神である同志社大学を卒業していたこともあり、キリスト教や教会に対して特に抵抗はありませんでした。
また、父はアメリカのコミック本「ピーナッツブックス」が好きで、自宅にはシリーズ本がたくさんありました。「スヌーピー」や「チャーリー・ブラウン」のキャラクターで有名なお話ですが、子どもでも読みやすい4コマ漫画形式なので、幼い頃から絵本代わりに親しんでいました。
この物語の特筆すべき所は、聖書のみことばをユーモアたっぷりに描いている内容
を多く含んでいるということです。スヌーピーの体を第1コリント書にあるキリストの肢体に例えたり、チャーリー・ブラウンの野球チーム用いて、ヨブ記を面白く表現したり。作中にあった台詞、「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる…」を小さい頃に暗記していましたが、これが聖書のローマ8章26節のみことばだと当時は知りませんでした。
ピーナッツブックスのキャラクターと世界観が好きで、ミュージシャンとして活動し始めた頃からステージ衣装には、ピーナッツ・キャラクターのイラストが入っているほどです。今思うと、イエスさまと出会うことを小さい頃から導かれているようでした。みことばは、身近にあった様に思えます。そして、聖書のみことばは人生の大事な時に語りかけてくれました。
母との別れ、みことばとの再会
高校一年生の時、母を病気で亡くしました。最期の時、一人の看護師が大きな本(聖書)を手に病室に入ってきました。
「上田さん、最期にこのみことばを送ります」
と、ある聖書箇所を母に語っていました。母の実家は禅宗でしたが、そのみことばを聞いた母はとても嬉しそうにしていたのをはっきりと覚えています。その翌日、母は安らかに息を引き取りました。
あの時母はみことばを心で受け取り、イエスさまを信じ天国へ召されたのだ、そう信じています。そのみことばは聖書のどの箇所なのかわかりません。聖書を読む時は、無意識にそのみことばを探してしまいます。でも、自分で探すのではなく、神さまが直接教えて下さることを期待しています。
その後再びみことばに触れるのは、12年後。その間、越してきた京都で学生時代を過ごし、ギターとドラムを始めとした数種の楽器の練習、ブルースやジャズのセッションに没頭、学園祭では軽音部の仲間とバンドを組みました。
将来はミュージシャンになる夢を追い、大学進学はせずに大阪を拠点にライブ活動をする日々を送っていました。その一方、仕事や人間関係でよく失敗をしてしまい、生きづらさも感じていました。
28歳の時、通っていた接骨院の近所に教会がありました。幼少期のピーナッツコミックの思い出がよみがえり、聖書を読んでみたいと興味本位で教会の門をくぐりました。中にいらっしゃった教会の方に、聖書を購入したいと伝えると、快く対応して下さいました。そして、集会でのメッセージを聞いて聖書を勉強してみたいと、知識欲から日曜礼拝に通うようになりました。
聖書を読み進めていくと、幼少期に読んだピーナッツブックスに出てきたみことばをたくさん発見しました。また、世界史が好きということもあり、バビロン捕囚などの難しい旧約聖書も歴史書を中心に興味深く学びました。
生きたみことばを体験、イエス様を信じる。
また、教会の活動にもよく参加していたので、牧師先生から信仰告白とバプテスマを勧められました。しかし、もっと聖書を知ってからが良いのではと、もう少し時間を下さいと言ってお断りしていました。その時はまだ、イエス・キリストはキリスト教の中で救い主として崇拝されている存在であって、自分の救い主だと思えず、自分がクリスチャンになっても良いのかと思っていました。
そしてある日、聖書を読んでいるとこのみことばが心を揺らします。
「どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」使徒10章35節
その瞬間、「え、僕でもいいの?クリスチャンになれるの?」
と、今まで知識でしか無かったみことばが、私の心に語りかけるように迫ってきたのです。
29歳の冬、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、バプテスマを受け、晴れてクリスチャンとなりました。
また、教会には「ソロモンバンド」という、教会員のみで構成された本格的なブラスバンドチームがあり、そこでドラム奏者として加わりました。様々な場所や施設などを訪問し、私自身はクリスマス時期限定の参加ではありましたが、精力的に活動しました。
結婚、そして沖縄へ
プライベートでもミュージシャン活動を続けており、セッションの企画でライブを行いました。その時、来客していた沖縄出身の女性と出会いました。彼女とはとても気が合い、話していくとお互いクリスチャンだということが分かりました。とても良い子だと思いましたが、年が9つも離れた大学生で、軽い気持ちではお付き合いできないと思っていました。
彼女は卒業後、沖縄に帰ることになっていたので、2人で祈り、結婚を前提にお付き合いをスタートしました。ただ、沖縄に行くとなると、大阪での仕事や音楽活動を一旦たたまなければなりません。
2004 年に結婚。沖縄に行くことは覚悟していましたが、2年ほど心の準備が要りました。2006 年、35歳の時に沖縄へ移
住しました。
移住して間もない頃、読谷村にある飛行場跡地を通りました。すぐに「ドラムの練習場所にいい!」と思い立ち、そこでドラムを叩くようになりました。物珍しさから、ラジオの取材を受け「これはウチナーンチュの発想じゃない」と言われた事もありました。通りすがりの人にコーヒーの差し入れを頂いたり、「あの飛行場の人なんですね!」と、人との繋がりも増えていきました。
しかし移住後は、文化や習慣、考え方の違いなど、自身の不器用な性格故に環境の変化にうまく対応できず、苦心することが多くありました。多方面で大きな失敗を繰り返し、よく挫折したり「クリスチャンなのにこんなんで良いのか」と自分を責めることもありました。
神様が助けてくださると信じて前へ
「君は自分で事業を立ち上げた方が性に合ってるんじゃない?」「楽器教室を昔の様にやってみたら」とある時期立て続けに助言を受けることがありました。妻に相談すると独立に賛成してくれ、意を決して2014 年に「上田ぢゃかミュージックスクール」を開校しました。教室を運営する中、以前読んだみことばが思い起こされました。
「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16章3節)
「ヨブは主に答えて言った。あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」(ヨブ記42章1・2節)
神さまが助けてくださる。神さまに全て委ねようと、より一層情熱が湧いてきました。
2014 年、東京にいる音楽仲間の家に泊めてもらった時のことです。友人の勤めている介護施設でブンネメソッドという音楽療法をしていると紹介してくれました。それから2年近くかけて東京での研修に足しげく通い、ブンネメソッドを習得しました。
ブンネメソッドとは、ブンネ楽器というオリジナルの楽器を用いて簡単に演奏することができ、数名で楽器を合奏することを通して、音楽をツールとした、身体的・精神的・社会的側面での活性化を促す音楽ケア手法です。
子どもであれば、演奏を通して知覚・認識・感性・社会性の発達をサポートしたり、お年寄りであれば、機能維持、短期・長期記憶への働きかけや、アイデンティティを再認識することにも繋げていきます。
沖縄に来てオジー、オバーに優しくしてもらったり、三線を学ぶきっかけを頂いた事もあったので、何か恩返しができればと思っていました。ブンネメソッドを学び、沖縄支部として普及に努めながら、施設を訪問させて頂いています。
イエス様が私したように私も誰かのために
私は、楽器演奏を通して神さまに一切全て委ねることを知りました。バンドでは自分に酔っていては良い演奏はできません。同じように賛美するときも、自分を真っさらにして神さまに委ねなければ、自分の栄光になってしまいます。音楽を通して神さまと共に生きることを知り、感謝しています。
また、先述した2006 年に沖縄へ引っ越す直前、大阪の母教会の方から「クリスマスに演奏しに帰ってきてくれる事を期待して待ってます(笑)」と冗談まじりで言われました。それを真に受け帰ると「ホンマに来たんかい」と笑われました。初めて教会に足を運んだ年から現在まで、毎年欠かさず母教会のクリスマスコンサートで演奏しています。そして、ここ2~3年ほどは、函館でもコンサートに参加し、大好きな故郷に恩返しができることも心から感謝します。
幼い頃に親しんだピーナッツブックス。そのキャラクターたちのステッカーを私のドラムセットに貼っています。4コマ漫画でユーモアを交えて楽しくご自身のことを教えてくれた神さまのように、次世代を担う子ども達にも楽しく楽器を教えていきたい
と思っています。
自分の経験や知識に依存しないように、これからの若い世代が神さまに仕えることの喜びを知る助けになれたらいいな。そう祈っています。