v88特集

お笑い芸人 アイアム 誕生秘話

新垣勝利さん(26) 金城真偉さん(24)

クリスチャンお笑いコンビ誕生の物語。涙と笑いに彩られた彼らの青春時代には、いつもイエスさまがそばにいた。

マサイさん(左)しょうりさん(右)

しょうり

 敬虔なクリスチャンの家庭にしょうりは生まれた。幼い頃から教会に通い、聖書の言葉に慣れ親しんで育った。教会は同学年の友達も多く、彼にとって楽しい場所だった。友達と過ごす時の彼は、お茶目で人を笑わせるのが得意だ。しかし、家に帰ると無口になる。家族の誰も彼の声を聞いたことがないのではと思うほどだ。しょうり自身は「俺は父親に似たんだ」と自負している。 

 中学の頃、しょうりはお笑いに目覚める。しかし、友達は笑わせても舞台に立つのは苦手なタイプ。頭の中ではいつも面白いことを思い巡らす変わったやつだった。同級生が教室で漫才をしているのを見て「これなら俺の方が面白い」と自信が芽生え、早速クラスの友達とコンビを組んで学園祭で披露した。結果は顔を覆いたくなるようなすべり様。最初から上手く行くはずがない。それがしょうりの心に火をつけ、その日からお笑いに没頭し始めた。 

 高校の時、県内のプロ1年目の芸人とアマチュア芸人が一同に集うコンテストで見事に優勝。その後、大学に進学し、県内の芸能事務所にも所属する。所属事務所からも将来有望の若手芸人として期待され、新聞の取材やTV出演など、まさに破竹の勢いだ。その頃のしょうりの鼻は、天に届きそうなほど高々と伸びていた。「大学を卒業したら、東京に行ってM-1で優勝してビッグになってリッチになってやる」自信に満ち溢れた彼の頭の中には、不可能という文字の影すら存在しない。お察しの方もいらっしゃるだろうが、その鼻はもうすぐ折れる。

学生時代のしょうり

 

マサイ

 マサイもクリスチャンの家庭に生をうける。両親は彼を舐めるように可愛がった。そのおかげで、超がつくほど天真爛漫に育つ。マサイを一言で表すなら「ポジティブ」これに尽きる。彼の両親はろうあ者だったので、幼い頃はろうあ教会に通っていた。両親とのコミュニケーションはもちろん手話だ。彼はそのことをコンプレックスには思わず、毎回の授業参観では、得意げに友達に手話を披露して見せた。

 マサイは小2の頃、しょうりの通う教会にやって来た。初めて声を出して歌う讃美歌に衝撃を受けた。「教会ってめっちゃ楽しいじゃん」人前で歌ったり踊ったりする衝動が抑えられないマサイ少年は、中学になると演劇のオーディションを受け、沖縄現代劇の舞台にも立った。

 高校になると、女子にモテるかもという理由から吹奏楽部に入部。結果はご想像に任せる。部活の忙しさから、教会へ行くことは少なくなっていた。流石のポジティブマサイも、そのころは少し心寂しい気持ちになった。それでも、教会の牧師が度々「元気にしてるか」と声をかけてくれることが嬉しかった。2011年、東日本大震災のあと、教会からボランティアを派遣することになり、マサイにも声がかかる。久しぶりに教会の仲間達に会ったが、みんながいつも通りに自分を迎え入れてくれたことに「俺の居場所はやっぱりここだ」と感極まる。

 話が前後するが、物心ついた頃からミュージシャンになる夢を持っていたマサイは、高3から芸大入学を目指す。必須科目のピアノを習い始めると、講師に「二浪は覚悟してください」とお墨付きをもらうが、彼にその言葉はなんの足枷にもならず、練習に邁進した。

 実は、このポジティブさには彼の性格だけによらない理由がある。小学生の頃読んだ

「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。詩篇121篇7節」

 この聖書の言葉が彼のポジティブに拍車をかけたのだ。「この神さまが一緒なら最強じゃん」

学生時代のマサイ

 

気の合う二人

 両者とも同じ教会にいることは認知していたものの、特にこれという接点はなかった。二人が面と向かって話すきっかけは、しょうりの同級生達が就職や進学で本土へ行ってしまい、遊び相手がいなくなり暇を持て余している時「なんだか面白そうなヤツがいる」と試しにマサイを誘ったことだ。話してみると、お互い今まで話さなかったのを後悔するほど気が合うではないか。毎回腹が千切れるほど笑った。そして、夢について語り合った。

「いつか、お笑いでビッグになってリッチになる」「いつか、大きなステージでコンサートを開催する」彼らの目の中には将来への希望という星がきらめいていた。

 お笑い一筋で寡黙なしょうりと、天真爛漫ポジティブマサイ。性格も生き方も正反対な二人が後にコンビを組もうとは、誰ひとり、彼ら自身さえ想像できなかっただろう。

挫折

 宣言通り、しょうりは大学を卒業してすぐに上京し、新たな相方と活動を始める。所属していた芸能事務所の計画を投げ捨て、百倍界王拳のごとくオーラを身にまとって東京の地を踏んだ。しょうりの計画はこうだ。「どこぞの養成所なんか行くわけがない。M-1までひとっ飛びで名を上げてやる」

 勇み足で直接芸能事務所へオーディションに向かった。相方と自慢のネタを自信満々に披露する。しかし、予想だにしないことが起こる。今まで笑いをかっさらってきたネタがウケない。そんなはずはない。しかし、面接官の誰一人、表情筋の動く気配さえない。ネタが終わると酷評の嵐が始まった。辛辣な感想が続く中「俺は面白くないのか。いや、コイツらが笑いをわかっていないだけだ」と自分に言い聞かせる。

 帰り道、相方と二人で今日は面接官が悪かっただけだとその場を繕った。明くる日、別の事務所のオーディションに向かう。そこで昨日のデジャブが起こった。帰り道でまだ大丈夫だと言い聞かせる。しかし、次の日もそのまた次の日も、台風のような酷評が彼らを襲った。「俺は面白くない」ついにしょうりの鼻は折られた。

 人生で初めてお笑いがキライになった。それだけでなく、自分の高慢さに気がついた。神さまに祈ることも忘れ、自分には不可能などないと思い上がっていた。怖くてオーディションには行けなくなった。大人しくバイトをする生活、夜は腑抜けになって東京の街をフラフラと歩く。

 そんな中、東京での信仰生活を心配した母親が、母教会の礼拝の動画を送ってくれた。久しぶりに聞く賛美歌に目頭が熱くなり、追い打ちをかけるように牧師の語る聖書の話で号泣した。涙が止まらない、その日は溺れるほど泣いた。「神さまに帰ろう」心の中で静かにそう言った。開くこともなかった聖書を読み始め、近くの教会にも足を運ぶようになった。

 一方のマサイは、県内の芸大を受験するも、ピアノ講師の予言を上回って三度不合格になる。しかもそのうちの一回は、受験申込日を間違え、試験さえ受けられないという大失態。笑っている場合ではないが、笑って逃げるしかなかった。

 それでも夢を捨てられない往生際の悪いこの男は、三度目どころか四度目の正直とばかりに、今度は合格できそうな別の大学を受験することにした。受験申し込みのために、大学のある九州へ向かう。そして、将来の希望いっぱいにキャンパスへ入った。しかし、受付の人の気まずい応対に気づく。なんと、またしても受験申込日を間違えるという空前絶後の凡ミスをしでかしたのだ。その後の芸人人生では鉄板ネタになる話だが、流石のマサイもこの時ばかりは笑えなかった。親に合わせる顔がない、脳内をネガティブな感情が駆け巡った。

 自宅に戻り、恐る恐る玄関に足を踏み入れた。母親に「どうだった」と聞かれ、苦し紛れのグーサインで失態をひた隠しにした。しかし、親には子どものことなど手に取るようにわかるものだ。母は気づいていたが責めも咎めもせず「この子は大丈夫」とただ息子を信じた。そして、マサイはしばらく部屋に引きこもった。

共同生活

 マサイ三浪の知らせは、東京にいるしょうりにも届いた。どうにかまだ夢を諦めていなかったしょうりは、マサイにも頑張ってほしいと上京することを勧めた。「東京に来てチャレンジしてみないか」電話越しのしょうりの言葉に励まされ、マサイは東京行きを決意する。ここからが立ち直りの早いマサイ。東京行きの準備をしている間に、やり残したゲームをクリアしようと毎日ゲームに励んだ。こいつは本当にポジティブだ。そして、しょうりと相方の部屋に転がり込み、三人での生活が始まった。

 しかし、マサイの上京と同時期にコロナ禍が始まり、夢を追うどころではなくなってしまった。そして、しょうりの相方は夢を断念し、芸人になることを諦めた。笑えない状況にも笑いは絶えず、他愛もない話で腹を抱えた。そのうちしょうりは「マサイとならお笑いを続けられるかもしれない」と思った。神さまに祈って考えてみる。「やっぱりマサイしかいない」意を決してマサイに心の内を明かした。

「俺と一緒にお笑いやらないか」

 しょうりにとってはお笑い人生をかけた告白だ。一方のマサイは驚きを隠せず「ちょっと考えさせて、一週間、時間もらっていい?」と答えた。マサイにとってしょうりは舞台の上で輝いていた先輩で、今までの相方との掛け合いも見てきた。生半可な返事はできない。本当に自分がお笑い芸人としてやっていけるのか、しょうりの相方になっていいのか神さまに祈った。

 一週間後、「一緒にお笑いやろう。ただ、俺もミュージシャンの夢は諦めない。だから歌も歌えるコンビになろう」

 なんともマサイらしい答えだ。2人は沖縄に戻って活動を開始した。ついに性格も生き方も正反対の新たなお笑いコンビが誕生し、神さまの計画が動き出していく。

 

アイアム誕生

 「これからのお笑い人生を神さまに捧げよう」今まで私利私欲のためにお笑いにエネルギーを注いできたしょうりは、笑いの中に福音のエッセンスを取り入れることにした。それは狭い道を選択することになる。キリスト教という生真面目な宗教観が、高いハードルとなったのだ。慣れ親しんだ聖書の言葉を笑いに変えて良いものだろうか、心の中には葛藤が渦巻き、加えて周囲の目も気になり始めた。考えれば考えるほど知恵熱で頭が痛くなる。 

 どこかに活路を見いだそうと、聖書を開いて調べまくった。聖書には「笑う」とか「笑った」など笑いの文字が度々現れる。しかし、その多くは純粋に楽しさを指すものではなく、嘲りを含むような否定的な意味で使われることが多いのを知った。しかも、イエス・キリストが「笑った」と明確に記されている所は見つけられなかった。しかし「笑わなかった」とも書かれていない。腑に落ちないしょうりの目にひとつの言葉が飛び込んできた。

「いつも喜んでいなさい」

 聖書は喜ぶことを教えていたのだ。「これだ!神さまは喜びを与えてくださる方だ。笑いの中に喜びがない時もある。でも、喜びのあるところには必ず笑いはある。神さまの喜びをみんなに届けよう、これならやっていける!」その確信を胸に、ツッコミのしょうりがネタを書き、ボケのマサイはそれに合わせる。初舞台のお客さんは教会の中高生達だった。

 元々真面目なしょうりは、これまでの相方には台本通りにネタを披露することを求めてきた。マサイが時折見せるアドリブに初めは戸惑っていたが、なんだか楽しくなってきて、次第にアドリブを求めるようになっていった。マサイも調子に乗ってアドリブを連発していく。時にやりすぎて、聖書の登場人物の一人を爆死させてしまい、それは流石にお蔵入りとなってしまった。

 二人で祈り聖書を読む時間は、ネタ作りだけではなく、お互いの信仰の成長にも一役かった。生活の中に神さまの存在を感じるようになり、単なる宗教としてのイエス・キリストではなく、生きて自分たちを導く方だと知り、ますます心に喜びを感じるようになった。

 コンビ名を決める時も、二人で聖書を開いた。初めに思い浮かんだのは、「十字架の言葉」を意味する「クロスワード」。舞台での登場の仕方はこうだ。「どうもー、クロスワードでーす」と言いながら腕を十字にクロスする。

「うん、ダサい。」

 今度は教会の主任牧師から「お前たちのコンビ名『五つのパン』にしたら」と言われ、

「かっこワル」

と有無を言わさず秒速で却下した。牧師の助言をないがしろにするなど今後が危ぶまれる。そして、二人はあるみことばにたどり着く。

 

神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」出エジプト記3章14 節

 

 英語では「I am who I am」このみことばに二人の目は輝いた。「なんだこれ、ちょーかっこいいじゃん」誰がなんと言おうとこれだ、とお互いに顔を見合わせた。これが「アイアム」命名の瞬間だ

コント・ペンギンショー(母教会にて)

初の大舞台

 コンビ結成から間もなく、大舞台の話が舞い込んできた。全国ネットでテレビ放送されるクリスチャン番組「ライフライン」の沖縄特別収録回への出演依頼だ。これまで、教会の中高生や子どもたちの前くらいでしかネタを披露したことがない二人にとって、またとないチャンス。

やるしかない、「やらせてください!」

 アイアムとして初の大舞台。当日まで、何度も祈り、ネタの練習に励んだ。そして迎えた収録日。舞台袖から会場を覗くと、なんと立ち見が出るほどの満員ではないか。マサイは口内のすべての水分が飛び、今までに感じたことのないほどの緊張感に怯えた。舞台慣れしているはずのしょうりでさえ、膝が震えるほどだ。

 そこへ、会場に居合わせた見ず知らずの牧師が彼らの肩に手を置き「祈りましょう」と声をかけた。一言二言続く牧師の祈りのことばが、二人の緊張を解きほぐしていく。自分たちでも驚くほど神さまの力を感じた。祈り終えると、これが聖書にある平安なのかと、先ほどの緊張が嘘のように消えている。

「それでは、アイアムの登場です」

司会者の声に勢いよく飛び出した。腹の底から声が出る。湯水のように出るマサイのボケとアドリブに、しょうりの鋭いツッコミがこれでもかというほどハマっていく。会場は爆笑に包まれ、楽しくてしょうがなかった。しょうりはこれまでのお笑い人生にない手応えを感じた。コンテストで優勝したあの頃と比べ物にならないほどだ。 

「いい加減にしろ、もういいよ」

ネタが終わり、神さまへの感謝を込め、いつもより長く、深く、お辞儀をした。すると、これでもかという拍手が鳴り響いてきた。「ちょー気持ちいい」マサイは心の中でこれからの人生でも忘れられないであろう瞬間を味わっていた。舞台を降り、高揚感に包まれながらも、二人は神さまに感謝の祈りを捧げた。

 

真の喜びを携えて

 彼らはまだ夢の途中。これからの人生で多くの笑いを生み出し、有名になり、そこに「アイアム」ありと言われる日が来るかもしれないが、それは誰にも分からない。しかし二人の青年は、その青春の一ページで、神さまが自分たちを守っておられることと、その計画は必ずなることをその心で悟った。そして、神さまはいつでもどんな時でも、自分たちと一緒にいてくださることを知った。

 彼らはこれからも「わたしはある」と言われる方の喜びを携え、どんな所へも突き進んでいく。

あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。箴言16章3節

主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。詩篇121篇7節

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