Daily Testimony#25

日常に隠れたイエスさまの祝福を探し出し、ほっこりしませんか。日々の証しを、家族や友達とシェアすると、私たちの内側から主の喜びが湧き上がります。笑いに涙に、何気ない会話の中にイエスさまは祝福を隠しておられます。

祈られて、愛されて(30代男性)

 僕は長年、ワーシップリーダーまたゴスペルシンガーとして色々な場所で奉仕をさせて頂いた。神さまを賛美することは、僕にとって何よりの喜びだ。しかし、もう十年以上も前から双極性障害(躁うつ病)に苦しんでいる。空も飛べそうなほど調子の良い時もあれば、苦しくて死んでしまいたいと考えてしまう日を何年も生きてきた。

 それでも、イエスさまを信じる者としてこの病気が癒やされることを信じてきた。牧師先生や教会の兄弟姉妹、他教会の友人などたくさんの人が祈ってくれた。自分でも、神さまのいやしを信じて大胆に宣言して祈ってきた。そして、何度かいやされた感じがして神さまに感謝することもあったけれど、何日かすると躁うつの症状は戻ってくるのだ。

 「祈っているよ」と誰かに言われても素直に喜ぶことができない。イエスさまはいやし主だとは信じるけれど、病の中にいる自分が「いやされました」なんていうのはおこがましくて声を大にして言うことは出来なかった。次第に、イエスさまのことを信じていても、僕の病気のいやしはそれとは別物だと思うようになった。「たぶん、僕は一生このままだ」それが僕の導き出した答えだった。それでも、賛美の奉仕が続けられたことは神さまの恵みに他ならない。「こんな僕でも用いてくださるなら」そんな思いでなんとか奉仕を続けて来れた。

 しかし、今年に入ってからなんだかいつもと違う。はっきりと言い表すことは出来ないけれど、心が落ち着いているのだ。以前のように気が高まり過ぎることがないし、疲れる日はあっても落ち込み過ぎることもない。とても不思議な感じがして、心の中で「なんか来た」と言葉にできない感覚がある。

 最近、ある集会の賛美リードを任された。集会の最後には献身の招きがあり、たくさんの人が神さまに人生をささげると決意して講壇の前に集まった。その姿に、僕も改めて神さまにすべてを捧げようと、再び献身の思いを与えられ恵まれた集会となった。集会の後は、奉仕者だけで交わりをする機会があり、久しぶりの仲間達との再会に楽しい時間を過ごした。

 昔から仲良くしている賛美リーダーが「最近調子よさそうだね」と話しかけてきた「そうなんだよ、今年に入ってから何か変わってきたんだ」と答えると「実は数年前、〇〇さんと君のためにずっと祈っていたんだよ」と話してくれた。〇〇さんは、僕の尊敬する大先輩で、何年も前に僕ら若い賛美奉仕者を集めて交わりや祈り会を開いてくれていた。しかし、その頃の僕は酷い鬱状態の時期で、数回顔を出しただけでほとんど参加しなかった。

 僕がいない間、〇〇さんは毎回「あいつは、必ずこの試練を乗り越えてまた喜んで賛美ができるようになる。だからみんなで祈ろう」と言って祈っていたというのだ。しかし、それから1年ほどしてその方は病気で天に召されてしまった。彼が僕のために祈っていてくれたなんて、しかも召された後にこの事を知らされ、言いようもない感謝が僕の心に覆い被さってくるようだった。

 「僕はこんなにもたくさんの人の祈りに支えられて生かされてきたんだ」今まで頭では分かっていたことが、腹の底にしっかり根付くようだった。振り返ると病の中で僕は、売れることや自己実現するためだけに歌うことを捨てるように示され、その中で多くを学ばされてきた。病を肯定するわけじゃない、神さまは病の中でさえ共にいてくださるということだ。

 実は、今も毎月通院して投薬治療を受けている。お医者さんは双極性障害と病名をつけるけれど、僕自身は回復の過程を歩まされていることを知っている。時々、以前のように心の中でマイナス的な思いに脅かされる気がする。けれど、それに対抗する不思議な力が働いているのも感じている。はっきりと説明できないが、確かに神さまの守りを感じている。

 僕のように、心に苦しみを抱えている人がたくさんいる。それでも、賛美者として祈りに支えられた者として、そして神さまの愛を日々体験している者として「神さまはいつもあなたを愛していて、必ずいやしてくださる」と伝えたい。何よりも僕たちに必要なものは、イエスさまの愛の内にとどまること。そうすれば神さまはすべてを良い方向へと導いてくださるから。

 

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのこと働かせて益としてくださることを私たちは知っています。ローマ人への手紙8章28節

God bless you

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