v86特集

95歳からの新しい人生

上原タマ子さん
上原タマ子さん(95歳)

苦しみの幼少期

 昭和2年1月。私は石垣島で生まれました。父と母は、出稼ぎ先の大阪の紡績工場で出会い結婚。私を身ごもった頃、実家の石垣から借金苦と叔母が危篤だと知らされた母は、いても立ってもいられず、離婚して石垣に帰りました。今では考えられませんが、当時は親のために自分の生活を顧みないのが普通でした。

 石垣での新しい生活、女一人で子どもを育てるのは大変な苦労です。母は、出産後すぐ小浜島の男性と再婚。私たちは小浜島に移り住みましたが、子連れでの再婚は歓迎されませんでした。母は新しい家族からいじめられ、必死に耐える日々。仕方なく2歳の私は、子どものいなかった石垣の叔父夫婦に引き取られ、母の顔も覚えないうちに離れ離れになってしまったのです。3歳になる頃には豚の世話を任され、毎日裸んぼうになって豚の餌を作っていました。育ての親は年寄りだったので、「オジー」「オバー」と呼んでいました。
 

 小浜島にいた母は、たまに石垣の家を訪ねてきました。実の母とは思いもせず、たまに来る親戚のお姉さんとしか思っていませんでした。ある時、近所の方が私を小浜島に連れて行ってくれました。母は、男の双子を産んでおり、血のつながった弟とは知らず、2人を抱っこして世話をしました。


 その日は、実母の家に泊まり、夜みんなで川の字になって寝ました。すると母は寝ている私を抱き上げ、おんぶして家の周りを歩きはじめました。なぜこんなことをするのかと、不思議に思っていましたが、母にとっては離れた娘への罪滅ぼしだったのかもしれません。帰りには、おにぎりを作って持たせてくれました。船で食べたあのおにぎりの味は、今でも忘れません。私にとってそれが唯一、母の味でした。

パラオへ

 私が8歳の時、パラオに出稼ぎに行っていた親戚がカツオ漁で成功していると聞いて、私たち家族は石垣にいる親戚と一緒にパラオへ行くことになりました。実母は猛反対したようですが、その願いも叶わず私はパラオへ。


 そこでは、朝はとれたてのカツオを売り歩き、夜は12時過ぎまでカツオ節や内臓の塩辛を作りました。学校へ行っても居眠りばかりで、まともに勉強した記憶はありません。遊びもせず、毎日同じ作業の繰り返し。子どもにとっては過酷な生活でした。


 そんな時、日曜日に友達が教会へ行くのについて行きました。みんなで讃美歌を歌い、つかの間の楽しい時間でした。日本人の牧師先生がお話をしていて、教会にイエスさまの絵があったのを覚えています。何度か教会へ通いましたが「アメリカの神さまを信じてはダメだ」と親に叱られ、教会へは行けなくなりました。
  
 9歳の時のことです。一緒にパラオに行った親戚と遊んでいると、私の親は本当の親ではないと言われました。なぜそんなことを言うのか問いただすと「親なのになんでオジー、オバーと言うのか。あんたの本当の親は、小浜島のお姉さんだよ」と言ったのです。子ども心にショックを受けました。しかし、今までの小浜島のお姉さんの不思議な行動が走馬灯のように思い出され、彼女こそが実の母だと悟ったのです。

タマ子さん13祝い(写真右)

戦争が始まる

 昭和16年、14歳の頃に太平洋戦争が始まりました。戦争が激しくなると、父を残し、母とパラオの島々を点々とし、その後フィリピンのマニラへ避難。それから台湾へ移り、そこで親戚と落ち合い、みんなでヤミ船に乗って与那国島へ向かうことになりました。


 船に乗る前日、生活に必要なものをカバンに詰め込み、旅館に一泊しました。しかし、朝、目を覚ますとカバンが盗まれていたのです。全てを失い、着の身着のまま与那国へ。そして、宮古を通って石垣へ帰りました。その後、父も無事に島へ帰ってくることができました。実母も生きており、帰ると私を引き取りたいと言って家にやってきました。育ての両親は「この子の幸せは私たちが決める」と追い返してしまいました。しかし、その後も交流は続けられたので、出生にまつわることや、私を手放さなければならなかった話など、母から直接聞くことができました。

実母の死、結婚、出産

 昭和23年、21歳の時、両親の紹介で糸満から石垣に来ていた船乗りの男性と結婚。翌年3月に長女が生まれました。その2ヵ月前に実母が他界。孫の顔を見せてあげられなかったことが残念でなりませんでした。


 その後、次女・長男が生まれ、三女を身ごもっていた昭和33年に、夫の仕事の都合で那覇へ向かいました。那覇市三原に10ヵ月ほど住み、その後、壺屋へ移りそこで20年暮らしました。家には親戚の下宿人がおり、家族水入らずの時間はなく、その状況に長男はいつも不満そうでした。夫は船乗りなので、ほとんど家にはおらず、女手一つで子どもたちと下宿人の世話をするのは大変でした。


 その後、子どもたちが独立した頃に、曙に土地を買って3階建ての建物を建て、一階は貸家、2階に私たち夫婦が住み、3階に三女の家族が住みました。

結婚、ご主人と一緒に。

長女がクリスチャンになってしまう

 長女が保育士になりたいと、沖縄キリスト教短期大学へ進学した時のことです。私たちは、沖縄の伝統的な先祖崇拝をしており、主人の実家は糸満の門中に属していたので、厳しいしきたりがありました。キリストを信じないことを条件に、長女の入学を認めました。しかし、彼女は職場実習で教会付属の幼稚園に行ったおり、キリストを信じてしまったのです。


 長女は、救われた喜びで舞い上がり、家族にイエスさまの話をしていました。夫は心配になって、彼女の通っていた教会へ様子を見に行き、長女の決心の固さに、教会へ通うことを認めました。私はキリストを信じる気はまるでなく、何度か長女に連れられて教会へ行きましたが、話を聞く気にはなれませんでした。


 しばらくして長女は結婚。長女の家族は、自宅向かいのアパートに住みました。月に一度、牧師先生が聖書の学び会のために訪ねてこられました。長女に誘われて、渋々夫と二人で参加しました。夫は耳を傾けて牧師先生の話を聞いているようでした。

家庭内トラブルと婿の救い

 月日は流れ、長女の家族は教会のある名護へ引っ越し、三女が私たち夫婦の面倒よく見てくれるようになりました。その頃、家族間で金銭トラブルが起こり、長男は関係を閉ざしてしまい、実家に顔を見せなくなりました。家族の間にできた溝は、私の心にも深い傷を負わせ、つらい日々を過ごすことになりました。時折、長女が家を訪ねては祈り、イエスさまの話をしてくれますが、先祖崇拝や門中のことがあるから信じる気はないと断っていました。


 しかし、主人は長女に連れられて教会へ通うようになり、月に一度の家庭礼拝にも自分の聖書を持って参加するようになりました。いつも牧師先生のお話に聞き入っており、イエスさまに心を開いているように見えました。私だけは、依然として聞く耳を持ちませんでした。


 ある正月の朝、長女の婿が自宅の一階を掃き掃除しに来てくれました。その時、彼は病気が回復して退院したばかりで、「あんまり無理しないでね」と話すと、「お母さん、僕は教会に行くようになりましたよ」と嬉しそうに話してくれました。その日、主人と婿は肩を抱き合い、泣きながら何か話していました。しばらくして、彼は病気で天に召されました。あの時何の話をしていたのかはわかりません。病床で彼は、医師や看護師にイエスさまのことをよく話したり、会社の同僚や友人にこれまでの感謝と、イエスさまのことを手紙で伝えたりしていたといいます。

主人と娘(三女)に先き立たれ

 2008年2月、主人は早朝から友人とゴルフに行く準備をしていました。私はいつものように弁当とお茶を準備していると、身支度をしていた主人が、「気分が悪い」と言って玄関で倒れ込み、そのまま意識を失ってしまいました。


 その日から、主人の入院生活が始まりました。病室にはよく牧師先生たちも訪れ、病気が治るように祈ってくださいました。彼は、病床でイエスさまを信じ、信仰告白をして洗礼を受けました。2012年10月19日。長い闘病生活の末、主人は亡くなりました。


 主人が居なくなってから、私は心も体も弱り始め、入院と手術の繰り返しで体が思うように動かなくなってしまいました。追い打ちをかけるように、今度は三女が、がんを患ってしまったのです。症状はひどくなるばかりで、長い入院生活を送りました。彼女も病床でイエスさまを信じる告白をしました。


 2020年6月。三女が亡くなりました。深い喪失感に襲われ、生きる意味を見失いました。毎日、どうやったら死ねるのだろうかと、日記帳には暗い思いばかり綴り、苦しくて夜も眠れません。もう94歳、いつ死んでも誰にも迷惑をかけないようにと、身の回りの整理を始めました。悲しみと苦痛の日々、このまま一人で死んでいく。幼い頃から辛いことばかりだったと思い出していました。

救いの時

 2021年11月、長女が三女の納骨式を教会ですると知らせてきました。コロナ禍で葬式もきちんとしてあげられず、娘のお骨だけはしっかり納めたいと思っていました。長女に連れられて教会へ行くと、教会の皆さんが三女のために素晴らしい納骨式をしてくださいました。とても丁寧に娘のことを扱ってくださり、感謝があふれました。


 牧師先生が「娘さんは今、イエスさまを信じて天国にいます。タマ子さんも娘さんと同じ所に行きませんか」と仰いました。これまでキリストの話はかたくなに信じず、長女や孫がいくら伝道しても、譲ることはなかったのです。しかし、「これが信じる最後の機会だ」と心の中で強く思い、「私もイエスさまを信じます」と応えました。心が穏やかになり、熱い涙があふれ、今まで肩にのしかかっていた重荷が取り除かれていくようでした。長女や孫たちは、私がイエスさまを信じると言ったことに耳を疑ったようです。みんな、私が救われることを何年も祈ってきたのです。子どもたちの喜びは計り知れなかったでしょう。

洗礼式(自宅にて)

95歳。新しい人生

 2021年12 月4日、自宅で、家族に見守られながら洗礼を受けました。95歳で人生が新しくなったようでした。聖書の言葉を覚えるには時間が足りないと思いましたが、イエスさまを信じて本当に良かったと心から感謝しています。


 私がこれから向かう場所がはっきり分かった今は、喜びでいっぱいです。家族との会話、教会での礼拝は生きがいとなりました。
遊びもせずに働いた幼少期。実母と知っても一緒に暮らせず、それでも辛抱して生きてきました。


 そのような人生も、イエスさまは感謝に変えてくださいました。4人の子どもと11人の孫、さらに7人のひ孫がいます。こんなにも家族を祝福してくださって感謝します。今は、毎日が平安で、夜はぐっすり眠ることができます。


 これからの人生を、大切なイエスさまと家族とで楽しく過ごしていきたいです。

家族と一緒に

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