V78特集 生かされて今


私の人生も晩年に入りました。苦難の多い人生でした。

光の見えないトンネルにうずくまっていた私が、闇から光へ、

滅びから救いへ、死から命へと導かれ、今も神様に生かされています。

宮城徹子さん

貧農の子から教師へ

芭蕉布で有名な喜如嘉が私のふるさとです。1935 年1月1日、貧農の末っ子として誕生しました。小学生時代には戦争を体験。放たれた弾が私の耳のすぐそばを通り過ぎ、目の前の木に突き刺さりました。あと5センチでも立っている場所が違っていたら、その場で命を落としていたことでしょう。本当に守られていたのだと思います。

幼い頃から、引っ込み思案で劣等感のかたまりでしたが、両親の語る黄金(くがに)言葉に励まされ、人としての生き方を学んでいました。高校生の時、父は、「ぴんすー(貧乏)させてごめんよ。学問やれよ、徹ちゃん」とのことばを残し、亡くなりました。叶えられなかった父の夢を私に託したのだろうと、勉学に励み、教師となりました。

戦前の家族写真(前列中央が宮城さん)

教師となり赴任して1年目の暮れ、驚くような出来事が起こりました。思いもかけない男性からのプロポーズでした。家族の反対にあいましたが、24歳の時に結婚。二人の息子が与えられました。「死ぬ時も一緒だよ!」と誓い合った仲でしたが、結婚生活は波乱万丈。そして、離婚という形で終わりました。

たった19年での破局。人間の愛とは相対的で、移りやすく変わりやすいものでした。体も弱く、精神的にも疲れていた私は、小学生と中学生の息子を、一人で育てていけるだろうかと心は不安や苦しみでいっぱいでした。

渇いた心に恵みの雨

 職場の同僚にクリスチャンのKさんがいました。心身ともに疲れ果てていた私は、ある日、「教会に行ってみようかな」と、自分でも思いがけない言葉を口にしたのです。Kさんは「クリスチャンを見るとつまずくこともあるから、聖書や信仰書を読んでから、教会へ行くといいよ」と、三浦綾子さんの信仰書など数冊を渡してくれました。

ちょうど学校が夏休みに入り時間もあったので、むさぼるように読みました。「干天の慈雨」とはまさにこのことで、私の渇ききった心が潤っていくのがわかりました。感動と同時に、イエス・キリストを信じることによって、人の生き方がこんなにも変えられていくものだろうかと、その当時は半信半疑でした。

夏休みが明けたとき、Kさんがやって来て「あなたの家から徒歩で10分の所に伝道所ができたそうよ」と知らせてくれました。1979 年9月、那覇教会から桃原俊幸牧師が派遣され、名護バプテスト伝道所が開所されたのです。私は十月第一日曜日の礼拝に参加。桃原牧師の礼拝説教を忘れることができません。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)


初めて耳にした聖書のことばでした。私の心に今まで体験したことのない慰めと励ましが与えられ、イエス様に出会いました。そして、不思議な平安が心に満ちました。

続けて、11月には、下地朝隆牧師による特別伝道集会が開かれました。メッセージは「罪からの解放」について。罪、告白、赦しと救いなど、初めて聞くことばかりが語られました。私が罪人であるなど考えたこともなく、自分は正しい人間だと信じていたのです。

しかし、高ぶりや自己義認、ねたみ、憎しみ、劣等感、自己中心な生き方などが罪だと教えられ、それらのすべてが私の内にありました。罪を告白するなら赦されるという恵みを知り、招きに応じて、バプテスマを受ける決心をしました。

それから3カ月間、バプテスマを受けるために、「神について」「人間について」「聖書について」「クリスチャン生活」など、桃原牧師から集中的に学びました。

バプテスマ式

そして、1980 年3月30日、幸喜の海で、国吉守牧師からバプテスマを受けました。名護バプテスト伝道所受浸者第一号という
祝福。私にとって2度目の誕生日です。罪が赦され新しくされたという喜びと共に、内から力が湧いてくる感動を覚えました。見慣れたはずの海や、まわりのものすべてが美しく輝いて見えました。

早期退職し、憧れた第二の人生へ

 「人々との出会いに心からありがとう」この思いを強く胸に抱きながら、1993 年、58歳で勧奨退職しました。

定年を待たずに退職したのは、還暦を迎えるまでに「くつろぎの夢の空間」として自宅2階を改築すること、親族のために故郷の喜如嘉に山荘を建てること、イスラエルやカナダなどへ海外旅行をすること、そしてルーツをたどりつつ「自分史」を早めにまとめておきたいという、たくさんの計画を持っていたからです。


長年の願望であった2階の改築を終えました。一部屋は私の書斎。そこで朝夕の祈りと聖書の学び、読書、絵画や執筆と、憧れていた生活を始めました。奥の部屋はゲストルーム。一番大きなくつろぎの部屋は「シャローム」と命名し、壁には下手の横
好きですが、自分で描いた水彩画に、趣味の手ごねで作った陶器を置いて草花を挿し、落ち着ける部屋にしました。

「心貧しき者の幸い」(ジャン・バニエ著)の中に「人との関わりの中心にあるものは、相手を歓迎して受け入れること。歓迎するとは、『どうぞ、お入りください』と、自分の家に招き入れるだけのことでなく、物理的な空間に入れるというより、自分の心の空間に招き入れること。『私の心にあなたの場所があります』と招き入れることです」と書いてありました。

そのために2階は誰でも自由に出入りして交われる場にしたいと願ったのです。不思議にも部屋が整うと、県内、県外、国外から人々が訪ねて来るようになりました。私の予想をはるかに超え、素晴らしい出会いと温かい交わりがありました。

苦しみの中で知った神様の愛

自分史も書き終え、ゆっくりと聖書を読み、祈り、満たされた日々を過ごしていました。そんな矢先、家族に大きな問題が起こりました。その問題を解決するために、私は退職金のほとんどを失い、山荘建築や旅行など、計画のすべてを達成できなくなりました。自分で働いて得た報酬、それは自分が自由に使ってよいものだと考えていました。主が私の健康を支えてくださり、働かせてくださったという思いは全くなかったのです。

それから、48歳の若さで次男が亡くなりました。苦しみの中でヨブ記をむさぼるように読み、「主が与え、主が取られたのだ。」(ヨブ1章20節)ということを痛感させられました。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19章21節)


人生を支配しておられる方は確かに主であられ、私の計画ではなく、主のみ旨が私の上に成ったのだと思い知らされました。
失った富はもう二度と手にすることはできず、亡くなった次男はもう家に帰ってくることはありません。私は独居生活となりました。「主よ、どうしてですか」と嘆き叫ぶことも度々。神様に捨てられたような気持ちにさえなりました。

しかし、ゲッセマネで苦しみもだえて祈るイエス様のお姿が目に浮かびました。死に渡される苦しみの中で、「わが父よ、も
しできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26章39節)
と祈られた姿です。


父なる神への信頼と服従、全てを委ねられるイエス様の心。十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と叫びつつも、父なる神に全てを委ねられたイエス様の姿に、悔い改めさせられたのです。罪のままでは神様に近づくことのできない私を神の子として回復させるために、イエス様が私の身代わりに十字架にかかり、新しいいのちを与えてくださったのです。「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩篇119篇71節)は私の告白でもあります。

次男と共に奉仕した7年間の思い出と出会い

70代の頃、泉川良道牧師から声をかけられ、次男とともに「ふーみんぐ(現かぞくの家)の管理人として奉仕をさせて頂きました。そこで行われていたセミナーを通して、家族を活かすための聖書の学びを受けました。多くの人々のカウンセリングが行われ泉川牧師のアドバイスを傍らで聞きながら、私の学びにもなりました。

家族間のDV問題で避難して滞在する人たちや、さまざまな問題を抱えて駆け込んでくる人々に食事を提供したり、一緒にコーヒーを飲んだりしながら、その人たちが話すことを傾聴しました。それだけでも人がいやされていくことを知りました。

また、東日本大震災で東北の方々が避難して来られ、3カ月ほど滞在されたことがありました。「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。」とのみことばが思い出され、苦しいのは私一人ではないということを知りました。

「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(第一コリント10章13節)


ふり返れば私自身も耐えられないという思いを何度もしながら、人との出会い、人から与えられたことばによって、また、神様との出会いと聖書のみことばによって、今日があるのだと感謝が溢れました。「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13章5節)という神様のことばに感謝しています。


愛されるべき資格のない私です。心の嫌な部分や汚れ、弱さは隠しておきたいと、自分の本性をさらけ出せず、自分を愛することができませんでした。しかし、「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ43章4節)と、神様は私をありのま
ま受け入れ、愛してくださったのです。

とりなし手として生きる

私の使命は、私に委ねられている方々に寄り添うことだと考えています。今はコロナ禍でなかなか人と会うことはできませんが、電話をかけたり、手紙を書いたりしてみことばを届け、慰め励ましを与えられるように努めています。

「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」(第二コリント1章4節)


現在も名護バプテスト教会で仕え、田畑凡男先生のもとで教えてを受けています。「わたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」(第二コリント4章16節)のみことばに希望をおき、先に召された次男と天国で会えるという、その日を楽しみに待ちながら、インマヌエルの主と共にこれからも歩んで行きたいと思います。

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